境川と長良川の合流点(伊豫漫遊書庫から転載)

February 28, 2007
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imajouの独り言(2006-08-24)を転載
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 境川は長良川に合流する直前で向きを南に変え、かなり下流で合流している。向きを変えてから合流点までの流路は直線状で、人工の匂いがする。この部分は治水か利水を目的として造られたものではないだろうか。本来は向きを変えずにそのまま西に向かい、長良川に合流していたと推測する。
 もしこれが当たっているなら、河口から遡り、この地点で左に行けば稲葉山方面に、右に行けば尾州河野郷方面に至る分岐点である。従ってこの地点は水上交通の要衝と言えるだろう。その分岐点に墨俣河野氏が居て、その先に尾州河野郷が存在したのは偶然だろうか。解明が待たれる。

記事一覧(伊豫漫遊書庫)


伊豫漫遊書庫記事一覧(ココ

 

 

  •      湯築城で出土した墨書土器の土州様について

       [歴史]長宗我部元親が土佐守になったのは(2011-05-22「imajouの独り言」から転載) 海遊庵主さんから電話あり、長宗我部元親が土佐守を拝領したのは天正16年(1588年)で、秀吉から貰ったとのこと。 笹ヶ峠合戦(天正2年、1574年)の前に元親が送った書状に長宗我部土佐守元親とあるが、土佐守を貰うのはずっと後のことなので、この書状は偽物ということになる。書状が偽物とすると、笹ヶ峠合戦に関する一次史料は皆無となり、同合戦が疑問視されるのも無理からぬところだ。元親が土佐守を貰った時期が長年気になっていたが、これですっきりした。庵主さん、サンキュー。[歴史]墨書土器の「土州様」に関する考察(2011-06-09「imajouの独り言」から転載) 湯築城跡で「土州様」と墨書された土器が出土しているが、この土器が出土したことは、ここで「土州様」を交えた宴席が設けられたことを意味する。問題は「土州様」とは誰か。次にその宴席が設けられたのはいつか。この二点を先ず明らかにしなければならぬ。 湯築城拡張時(1835年)以後、この近傍で土佐守を拝領した人物、もしくは土佐守を名乗っていた人物は誰か。これが意外に判らない。 この近傍で土佐守と言うと先ず頭に浮かぶのは長宗我部元親であるが、元親が土佐守を貰ったのは天正16年(1588年)秀吉からで、湯築城開城後である。もう一人の土佐守は今治7万石小川祐忠であるが、今治に居た時期は1598年から関が原合戦のあった1600年までの足掛け三年間である。 もしこの二人のうちどちらかが伊豫を訪れ、湯築城での宴席に出たとしても、時期は湯築城開城後となるので、それを迎えたのは河野氏ではあり得ない。勘では加藤嘉明だが如何?

    June 12, 2011

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    [歴史]高知県史編纂に関する疑問

     昨日採り上げた高知新聞の「元親は四国統一できず!?」の中で気になる一節がある。----------------------------------------------- 1575(天正3)年、土佐を統一した長宗我部元親は四国平定に乗り出した。途中、織田信長の干渉を受けながらも阿波、讃岐を制圧し、1585(天正13)年春、伊予中部の河野通直(こうの・みちなお)を降伏させ四国を統一した――というのが、「高知県史」などで長く語られてきた通説だ。 これに反論する論文を、三重大学藤田達生教授(日本史)が1991年に発表。同教授は史料解釈の間違いなどを指摘した上で、▽伊予国内には、北部の来島氏など降伏していない勢力が存在する▽河野氏の降伏は後世に書かれた軍記物「土佐物語」の記述に依拠したもので、これを示す史料はない――として統一説を否定した。----------------------------------------------- これが事実とすると、高知県史は歴史研究の原則を無視して作られた、信用出来ない刊行物となる。土佐物語など軍記物や二次史料が伝えることを、一次史料に基づいて検証することなしに採択したとすると、高知県史は歴史書でなく、軍記物などが伝える伝承を纏めた書となってしまう。 高知県の名誉のためにも、県史の見直しを至急行なうべきであろう。実は宿毛市史にも類似の問題点が存在する。宿毛市史が高知県史を参照しているなら起きて当然のことである。これを見ても高知県史の罪は重い。=================================================================注:保存のため「imajouの独り言」から転載する。

    June 11, 2010

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    [歴史]元親は四国統一できずの記事

     昨日高知新聞が報じた「元親は四国統一できず!?」と言う記事があちこちで話題になっているようだ。 元親が四国統一は達成寸前で秀吉の四国攻めに遭い、頓挫したことは既に常識と思っていたがそうではなかったらしい。記事の中で紹介されている藤田教授の論文は、発表されたのが1991年だから19年前。我々が湯築城の保存運動をしていた時、川岡教授に長宗我部氏は湯築城まで来たかお尋ねし、来ていないと説明を受けたのが十年以上前のこと。その時先生は、研究者の間では元親の四国統一は成就しなかったと、見解はほぼ一致していると仰った。更に、長宗我部との攻防戦に関係する感状などの史料がそれぞれ残っているのに、湯築城での戦いを示す史料は見つかっていない。当時湯築城には小早川氏の家臣が常駐していたにも拘わらず、小早川氏の文書にも一切存在しないので、長宗我部勢が湯築城まで来たと言うことは出来ないと言う説明だった。 高知新聞は更に湯築城で出土した瓦と墨書土器について報じているが、その報道は正確さを欠く。瓦は岡豊城、中村城の瓦と同笵であることは正しいが、それを以って長宗我部氏にかかわる瓦と言う見解はおかしい。以前高知の歴史民俗資料館の館長さんが湯築城でその瓦をご覧になり、その場で「この瓦が土佐から来た可能性は全く無い。当時土佐には瓦を焼く窯は無かった。従ってこの瓦は泉州かどこかで焼いたものが三つの城で使われたと見るべきである。」と見解を表明された。その見方が正しく、論理が通っている。同笵瓦であることは産地または版木が同じであることを示すだけで、長宗我部氏に関わる瓦と見るのは論理の飛躍であり、手前勝手な独断に過ぎる。 土州様と書かれた墨書土器についても同様で、土州様が元親を示すと見るのはこれも論理の飛躍であり、独断に過ぎる。土州様とは土佐守様という意味で、その土佐守が元親であるか他の人物であるか、これだけでは断定できない。当時四国には元親ともう一人土佐守が居た。小川祐忠で、慶長3年伊予今治7万石を与えられ、国府城を居城とした。他にも居るかもしれない。出土した墨書土器はその中の一人が湯築城を訪れたことを示すのみであり、それが元親であるか、他の人物であるかについては何も語らない。 記者であるなら、もっと論理の通った記事を書かねばならぬ。こんな論理の破綻した記事を書いては、記者失格である。【参照】湯築城跡、道後町遺跡の出土資料の見学会=================================================================注:保存のため「imajouの独り言」から転載する。

    June 10, 2010

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    添付した写真が何故か消えた

     古い記事を見直していて、添付した筈の写真が、かなり消えていることに気がついた。何故? このブログは、あちこちに書いた中から、残して置きたいものを保存するための書庫として使っている。それが消えてしまうとは何事か。フォトアルバムは残っている。表示する写真を指定した記述が消えたと言うことだが、そんなことが起きるのだろうか。 こんなことが起きるようでは、このブログの使えない。乗り換えを考えるべきかも知れない。

    January 30, 2010

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    [歴史]湯築城資料館で開催中の企画展「道後の由来」

     平成21年度湯築城資料館企画展「道後の由来」を見学。8日に一度行ったが、時間が無くざっと見ただけだったので、今日ゆっくりと見直した。 道前・道後の地名は、中世の史料によると多くの地域で使われていたことが確認でき、愛媛県では道後の地名が今に残り、中でも道後温泉の名は全国に知られている。道前の名は秋田、愛知、福島、宮城、岩手県などに残っている。 愛媛県の道前・道後は高縄山を境としていたらしい。その道前・道後を確認できる史料は、平安時代の長寛二年(1164)の弓削島庄住人等重解(ゆげしまのしょうじゅうにんらかさねてのげ)が一番古いらしい。15世紀の史料では、神崎庄(現在は伊予市内)や浮穴郡太田(現在喜田郡内子町小田)が道後と認識されていたことが判り、この時代には道後はまだ広域地名であったことが確認できる。 16世紀中頃になると、湯築城や道後温泉周辺を指す用例が散見されるようになる。また、河野氏やその権力体を指し示す用例が確認できるとのことで、広域地名であった道後が、政治・経済の中心である現在の道後を指す地名に変遷して行ったと見られる。今回の企画展は道後と言う地名の由来と変遷を示す史料を数多く展示し、さらにそれらを網羅する「平成21年度 湯築城資料館企画展『道後の由来』展示図録」を発行している。この美麗な図録を作ったのはヒットで、毎年開かれている企画展の中で今回が一番良かったと思う。毎年続けて欲しい。

    November 18, 2009

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    [歴史]漢委奴国王印の委奴とは

     かって志賀島で発見された金印「漢委奴国王印」の「委奴」をどのように読むか、昔から盛んに議論されて来た。これを「漢の倭の奴国」と読むのは今では論外で、「漢の倭奴国」が正しいとほぼ決定した。但し、これは委が倭を略記したものと言う解釈が前提になる。 ところで「委奴」つまり「倭奴」とは何か、或いはどこかが判然としていない。一昨日から漢音・呉音や上古音を調べていて、偶然倭奴について論じているサイトに出会った(ココ)。そのサイトでは、倭奴(委奴)は匈奴と同じ筆法の蔑称であると論じている。匈も倭も民族を表す差別文字であり、奴は民族とは関係ないが差別文字である。つまり倭奴も匈奴も民族を表す差別文字の後にもう一つの差別文字をくっつけた蔑称であり、同じ構成であると言う。目から鱗。卓見と思う。 この説によれば倭奴=倭である。そして中国の昔の史書の記述と一致する。それらを抜粋する。(委奴国参照)・「旧唐書」<倭国・日本伝>10世紀前半成立(セ)倭国は古(いにしえ)の倭奴国である。都から14,000里、新羅から東南の方角 の大海の中にある。…(ソ)日本国は倭国の別種である。… ・「唐会要」<倭国伝><日本伝>10世紀後半成立(タ)(倭国は)古(いにしえ)の倭奴国である。新羅から東南の方角にあり、大海の 中に住んでいる。…(チ)日本は倭国の別種である。… ・「新唐書」<日本伝>11世紀前半成立(テ)日本は古(いにしえ)の倭奴である。都から14,000里、新羅から東南の方角の 海の中にある。… ・「論倭」(隣交徴書より)14世紀前半成立(背景)日本で文永の役弘安の役と呼ぶのは、それぞれ1274年・1281年の元寇のことである。元(げん)は、これらの2度にわたる日本遠征で惨敗し、壊滅的打撃をうけた。そのため、元は日本を極度に恐れて、日本人を強悍でずるがしこい倭人として描くようになった。それがこの「論倭」にも表されている。(ト)(1) 倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに、独り元に服属せず、…(2) 唐が百済を攻めた時、百済は(倭奴の)兵を借りたが白村江(はくすきのえ)で 敗れた。(倭奴は)物欲しそうにうろうろしながらも撤退した。今(元の時代)の 倭奴は昔(白村江の戦いの時)の倭奴ではない… ・「宋史」<日本伝>14世紀中頃成立(ナ)日本国は、本(もと)は倭奴国である。 ・「元史」<日本伝>14世紀後半成立(ニ)日本国は東海の東にあり、古(いにしえ)は倭奴国と称した。 これらを整理すると、大陸では「倭」=「倭奴」であり、それが後に「日本」になったと認識していたと解される。ここで注目すべきは「日本国は倭国の別種」と言う記事である。どの書だったかに、日本だったか倭だったかの使節団が二つ、あちらの都で鉢合わせして本家争いを演じ、先方は扱いに困ったと載っている。これと日本国は倭国の亜種と言う記事と併せると、倭国から日本国が出来、しかも或る期間両者が並立していたと言っていることになり、神武東征(または東遷)を思わせる。 細かい議論はあるだろうが、大陸の史書に記された我が国に関する認識は、大筋では次ぎのようになる。 倭(=倭奴) ---> 日本または 倭(=倭奴) -┬-> 倭  -¬           │         ↓(吸収)           └-> 日本 -亠-> 日本 委奴国から出発して思わぬ副産物が得られた。だがこの二つの変遷はどちらも近年有力となった纏向遺跡邪馬台国と言う説と相容れないようじ思う。どう決着するか楽しみ。

    November 4, 2009

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  • 西法寺の紋

    西法寺の紋(2009/04/09 「imajouの独り言」から転載)薄墨桜の花弁は16枚。西法寺はその薄墨桜に因む紋を使用している。上側の写真はその紋を写したもの。ただし写真を見て判ったのだが、菊の御紋章に似た紋らしきものがある。どちらが西法寺の紋か、一度確かめる必要がある。西法寺の紋 posted by (C)imajou

    April 10, 2009

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  • 薄墨桜

    西法寺の薄墨桜西法寺に薄墨桜を見に行って来た。明後日の日曜日頃が満開の筈だが、明日も明後日も行けないので、少し早すぎるのを承知で行って見た。住職の話では昨日はまだ2・3分咲きだったが、今日暖かかったので一気に開き、五分咲きくらいになったとのこと。桜は矢張り晴れた方が映える。花が綺麗に撮れた。品のある八重桜。花弁は16枚。接木やバイオで増やしているので、いつか山一杯に薄墨桜が咲き誇る日が来るかも知れない。(写真はクリックすれば拡大)P1030711t posted by (C)imajou南海放送が今日この桜を生中継するので、その準備をやっていた。僅か2~3分の放映のため、何時間も前から準備、ご苦労なこと。

    April 15, 2008

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  • 西法寺と薄墨桜

    西法寺の薄墨桜(2008/04/11 imajouの独り言から転載) 西法寺に薄墨桜を見に行って来た。明後日の日曜日頃が満開の筈だが、明日も明後日も行けないので、少し早すぎるのを承知で行って見た。住職の話では昨日はまだ2・3分咲きだったが、今日暖かかったので一気に開き、五分咲きくらいになったとのこと。桜は矢張り晴れた方が映える。花が綺麗に撮れた。品のある八重桜。花弁は16枚。接木やバイオで増やしているので、いつか山一杯に薄墨桜が咲き誇る日が来るかも知れない。(写真はクリックすれば拡大)P1030711t posted by (C)imajou 南海放送が今日この桜を生中継するので、その準備をやっていた。僅か2~3分の放映のため、何時間も前から準備、ご苦労なこと。西法寺の軒丸瓦の紋(2008/04/13 imajouの独り言から転載) 西法寺の古い歴史を伝えるものが、薄墨桜のほかにもう一つ有る。それは西法寺本堂の軒丸瓦の紋で、16枚の花弁を持つ菊の花、即ち菊の御紋章である。寺伝が伝える薄墨桜の由来は、広く知られている。即ち、天平の昔天武天皇道後温泉にお泊まりの時、皇后が病気になられ、病気平癒の勅命を受け、一寺を挙げて本尊薬師如来に修法祈祷を行ったところ、日ならずして皇后が回復された。喜ばれた天皇は勅使を遣わし、薄墨の綸旨と共に一本の桜を賜った。寺ではその桜を育て今日まで伝えており、綸旨の紙の名称「薄墨紙」に因んで「薄墨桜」と呼ばれている。今は三代目で、初代は800年、2代目は平成6年の松山の大渇水で枯れたが、それでも400年の寿命を誇った。軒丸瓦の紋は、薄墨桜を賜った後、特に許されて使用するようになったと言う。珍しい例であろう。下の写真を拡大すれば軒丸瓦の紋がはっきり判る。P1030739t posted by (C)imajou 西法寺には薄墨桜(学名イヨウスズミ)のほかに、西法寺桜、新西法寺桜が有る。前者は薄墨桜と染井吉野、後者は薄墨桜と大島桜との自然交配種であり、薄墨桜とあわせて地球上でここにしかない桜が三種類もある。これも珍しい例であろう。薄墨桜は原種に近いそうで、その点でも貴重な種である。多くの桜の中で、花は薄墨桜が色も形も良く、気品が有り一番好きだ。咲く時期は一番遅く、言うなら桜の真打である。毎年春になるとこの花を見に行くのが習慣となってしまった。

    April 15, 2008

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    迷惑トラバを拒否する方法は?

    日記の設定の欄にトラックバック拒否リストがあり、 「トラックバックを受け入れる」場合に、受付を拒否したいURLがある場合は設定してください。」と書いてある。そこで拒否したいトラックバック送信元ブログのURLを記入したが、全然効果なく、毎日スパム・トラバが送られて来る。拒否したいURLとは、トラバ送信元ブログのURLではないのか。質問メールを送ろうとしたが、アドレスが判らないので、楽天スタッフブログの関連する記事にトラバして尋ねることとする。

    March 7, 2008

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    同笵瓦の出土が意味すること

     湯築城から岡豊城・中村城の瓦と同笵の瓦が出土したことから言えることは、同一職人或いは同一職人グループが作った瓦が、三つの城にあったと言うだけで、それ以上は何も語っていない。どこの職人がどこの土を使ってどこの窯で焼いたのか、などは今現在不明である。これらを明らかにするには、データの収集蓄積と分析を待たねばならない。 ところが、岡豊城・中村城と同じ紋様の瓦が出たと言うだけで、長曾我部氏の力が湯築城まで及んでいた証拠と見る向きもある。このような短絡的思考は論理を無視した暴論と言わざるを得ない。高知歴史民俗資料館の宅間館長の「土佐に瓦を焼く窯は無い。、泉州で焼かれたものとはっきり判っている瓦も出土している。問題の瓦も土佐以外で焼かれたもので、同笵瓦があちこち出土するのは当然である。湯築城・岡豊城・中村城から同笵瓦が出たことを以って、長曾我部氏が湯築城を抑えた証拠とすることは出来ない。」という論理明快な発言が正論と言うべきである。歴史を見るのに論理を欠いてはならず、史料や資料の恣意的な解釈は厳に慎まなければならぬ。【imajouの独り言から転載】

    February 15, 2008

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    見近島に橋脚が2本あるのは何故?

     先ず地図をご覧頂きたい。しまなみ海道伯方島と大島の間を、伯方橋大島大橋の2本の橋で結んでいる。次にこの写真をご覧頂けば、その2本の橋を支える橋脚が、見近島の伯方島側と大島側にそれぞれ1本設けられていることがお判りと思う。 しまなみ海道で見近島のような小さな島に、橋脚を2本設けた例はほかには無い。見近島も当初計画では橋脚は1本であった。それが2本になった裏にには、文化財保護にまつわる隠れたエピソードがある。今日はそれを紹介する。 公共工事を行なう際には、行政が事前に発掘調査を行なう。見近島においても橋脚建設予定箇所の調査を行なった。すると予想もしなかった遺物が大量に出土した。その中には3000点もの海外陶磁器が見つかった。この量は島の推定人口に比べて圧倒的に多いこと、また同種のものが固まって出たことを合わせ考えると、この島が流通の中継基地であったと推測された。 見近島は上記地図で判る通り、能島に近く、能島村上氏の勢力圏内であることから、能島村上氏の中継基地だったと考えられ、この発見により彼等海賊衆が流通に携わっていたことを、始めて考古学的に確認できた。  このように貴重な遺跡であることから、愛媛県教育委員会は見近島の遺跡を残さねばならぬと判断し、本四架橋公団と掛け合った。遺跡を残すには設計をやり直さねばならず、公団側はなかなか承知しなかった。しかし最後に遺跡の重要性を理解し、橋脚を遺跡を挟んで両側に各1本設けることに変更し、遺跡を残すことが出来た。 以上は見近島の調査を担当し、本四架橋公団との交渉に当たった方から直接伺った話で、そのご努力と、遺跡の保存のため設計変更に踏み切った公団の英断に、心から敬意を表したい。 なお、見近島における発見は、後日湯築城跡の発掘調査結果に繋がって行く。それについてはまた後日紹介したい。【哲の日記から転載】

    March 3, 2007

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    海賊の真実

     海賊と聞くとパイレーツ(pirate)、海の悪者と捉えるのが普通であろう。だが中世の海賊はパイレーツと同義語ではなかった。明治期に海賊の訳語としてpirateを当てたのが一般化し、中世の海賊もパイレーツと誤解させる原因となったらしい。 そもそも昔から世界各地に陸の民と海の民が存在していた。海の民とは海を生活の場とする人々で、海洋民族と言われるフェニキアなどその典型例である。日本では海賊と呼ばれる三島村上氏はその代表的存在である。海の民の関心はあくまで海に向き、彼等の拠点は沿岸部や島にあり、決して内陸深く支配を広げようとしない。中世伊豫の豪族であり、守護にまでなった河野氏にもその傾向を感じるが、考え過ぎだろうか。河野氏の戦争を見ると、領土を拡張するために自分から仕掛けた戦いが見当たらない。当時の武将にあっては非常に特異なことと感じる。 それは兎も角として、海賊たちの生業は何であったか。今の言葉で言うなら海上保安庁であり、水先案内人であり、水運業者であった。そして時に水軍として戦う。 海賊が海上保安庁と言うと奇異に感じるかも知れないが、瀬戸内の安全を誰かが確保しないと、瀬戸内航路は止まってしまう。例えば三島村上氏がパイレーツであり、所謂海賊行為をしたらどうなるかを想像して見れば判るであろう。歴史上、瀬戸内航路が完全に止まったことがある。藤原純友の乱の時である。この時、京では餓死者が出たと伝わっている。だが戦国期にも京・大阪でそのような事態になった話は無い。誰が瀬戸内の治安を維持したのか。戦国期に名を馳せた三島村上氏など海の民である。戦国時代に世が乱れ、海にもパイレーツが増えたが、彼等がパイレーツを取り締まり、海の治安を維持した。 芸予諸島の海域は海が狭いため潮流が激しく、海の難所である。現在の動力を持つ船舶でも航行は難しく、操船を誤って島に衝突することがある。そこで下関から神戸・大阪に向かう船には水先案内人が乗船して誘導する。水先案内料は、だいぶ前のことだが、50万円と聞いた。動力を備えた船ですら通るのが難しい難所を、まして昔の動力を持たない舟が簡単に通れる筈はない。それを無事に航行させたのは、潮流を熟知した海賊と呼ばれる海の民であった。 彼等が通行料を徴収したことを以って海賊行為と言う人が居るが、それはおかしい。当時は陸にも関所があり、通過するだけで通行料を取っていた時代である。海で水先案内と安全を保証する行為に対価を求めるのは、単なる通過料ではなく、実質を伴う行為に対する対価であり、当然の商行為である。対価が積荷の10%で高すぎると見るのも、現代の感覚による判断に過ぎない。 水運業については説明するまでもないであろう。海で暮らし、海を自分の庭の如く駆け巡る彼等が、物資の水上輸送を請け負うのは、余りにも当たり前の行動である。 最後に水軍機能であるが、彼等の様々な機能の一側面に過ぎない。陸で自衛手段として武力を持ったのと同じで、パイレーツから自らを守る自衛の武力を持つに至ったのであろう。海のこととて陸とは違った発展を遂げたのも当たり前のことである。 海賊とは海の民のことで、政権側から見て自分らの思う通りにならないので、賊と呼んだのではないかと推測する。海の民が、海を知らず海に力の無い者の言うことを聞く筈はない。面白いことに、堂々と「海賊殿」と記した彼等宛ての書状が残っている。これを見ると「海賊」と呼ばれることに誇りを持っていたのではないかと推測する。 以上述べたのが海賊の真の姿である。この海の民に注目し、光を当てたのが網野教授であり、海の民を海民と呼んだ。海民は生活の場が海であることのほかに、流通の民と言う側面を持つ。流通の民はまた移動の民でもある。陸の流通の民、移動の民は悪党と呼ばれ、楠木正成はその代表的存在である。 南北朝の争乱は、或る意味で流通の民、移動の民と、定住の民との争いと言う性格を有すると指摘した人も居る。しかし、海の民と陸の民の争い、移動の民と定住の民との争いは、世界中で後者の勝利となり、海の民移動の民は姿を消した。そのため実像が判り難くなったのであろう。 このように海賊とは本来パイレーツと同義ではなかったが、今では海賊=パイレーツとなってしまったので、パイレーツと区別するため、本来の海賊を「海賊衆」と呼ぶようになった。 最後に一さんの名言をご紹介して終わりとする。  『海賊でなく「海族」の字を当てるべきだ。』【哲の日記から転載】

    March 2, 2007

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    灯台下に光を当てる活動

     灯台下と言うか自分の足下に光を当てる活動は色々あるが、湯築城ウォークもその一つ。自分らが住む地域の再発見。少人数でいい。各地域ごとに小グループが、自分らの町を、村を見つめ直し、それを報告し、語り合う。 湯築城ウォークには3人集まった。せめて5人集まればスタートしたい。湯築城はまだ判らないことの方が多い。素人が歴史推理を楽しむ余地が沢山ある。既に判っていることを基に、その先を推理して楽しむのが目的。論拠無しの空想ではない。 例えば、城内で井戸が見つからない。ある時期まで井戸が2つ存在したことが判っているが、次の段階で埋められてしまっている。井戸を埋めてしまって水をどこから得ていたのかと言う疑問が沸く。これを発掘調査等で判っていることに基づいて考えてみれば、様々に推理出来るはず。 もう一つ例を上げるなら、道後には古代の条里制の跡がくっきりと残っている。松山に条里制が布かれたのは比較的遅いらしいので、鎌倉時代かも知れないが、これほど明瞭にその跡が残るのも珍しいだろう。その条里制が湯築城とどのように関係しているのか、これも大きな楽しいテーマである。この問題を仔細に考察すると、湯築城が造られた時の地勢が浮かんで来るし、先の井戸の件とも繋がって来る。 この2つとも勿論現時点では正解は存在しない。従って各自が推理しても、それが合っているかどうかは不明である。しかし、これらを考えることにより、色々な事柄が様々に関係し合っていることが自然と理解でき、更にそれらが今現在に繋がっていることに驚嘆するだろう。 灯台下に光を当てるとは、このように自分らが住む地域を、自分らでしっかりと見つめ直すことだと思う。決して他から与えられるものではない。やって見ようと名乗りを上げる人が居たら嬉しい。やって見ませんか。【哲の日記から転載】

    March 1, 2007

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    灯台下に光を

     東京で生まれ育った者には、名所・旧跡は遠くにあるものと感じられ、それに憧れる気持ちがある。勿論東京にも比較的新しい時代のものはあるのだが、古い時代のものは少なく、奈良や京都に比ぶべくもない。就職して神戸に行った時のこと、ここが生田か、これが須磨か、ここが鵯越かと、歴史の真っ只中に飛び込んだ感じで、凄く興奮したのを覚えている。箱木千年家に至っては、平安京が出来た直後からの存在で、東京では想像も出来ないものである。 神戸ですら東京人にとっては歴史の宝庫と感じる町。まして奈良や京都に行くと、右を見ても左を見ても歴史のオンパレードである。それらを始めて見たとき、まことに羨ましく、自分が生まれ育った東京に古い歴史を物語るものが無いのを悲しく思い、劣等感すら覚えた。アメリカ人が古いものに憧れる気持ちと通じるのかも知れない。 歴史の古さは何故か人々に誇りを持たせる。三内丸山遺跡が見つかって、青森の人はそれまで持っていた劣等感が消え、誇りをもつようになったと読んだことがある。歴史の古さはどうもそう言う不思議な力を持つらしい。 翻って松山は、伊豫はどうなのか。神話の冒頭で語られる古い歴史を持つ。遺跡でも吉野ヶ里を上回るかも知れない弥生時代の集落跡があり、卑弥呼の時代の外交権を持つ国ではなかったかと推測される樽味遺跡があり、古代・中世・近世から現代に至る歴史の宝庫である。それなのに松山人や伊豫人は何故誇りを持たないのか。松山の見所はと尋ねられたなら、何故それらを堂々と語らないのか。歴史の力が伊豫では無力なのか。 湯築城にしても当時としては最先端の構成の城である。近世城郭の特徴を、安土城に先立って作り上げた先人の独創力を誇りに思って当然ではないのか。灯台下暗しの典型例と笑われぬよう、自分が住む地域を根本から認識し直すべきであろう。【哲の日記から転載】

    February 28, 2007

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    境川と長良川の合流点

    imajouの独り言(2006-08-24)を転載-------------------------------------------------------------- 境川は長良川に合流する直前で向きを南に変え、かなり下流で合流している。向きを変えてから合流点までの流路は直線状で、人工の匂いがする。この部分は治水か利水を目的として造られたものではないだろうか。本来は向きを変えずにそのまま西に向かい、長良川に合流していたと推測する。 もしこれが当たっているなら、河口から遡り、この地点で左に行けば稲葉山方面に、右に行けば尾州河野郷方面に至る分岐点である。従ってこの地点は水上交通の要衝と言えるだろう。その分岐点に河野墨俣氏が居て、その先に尾州河野郷が存在したのは偶然だろうか。解明が待たれる。

    February 28, 2007

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    三宅川の流路

    imajouの独り言(2006-08-24)を転載----------------------------------------------------------------三宅川が木曽川の昔の本流だったと記したサイトを発見。今は小さな川に変貌し、一部人工の用水路となり、更に暗渠と化して地図上から消えた部分もあるので、流路が非常に判りにくい。それでもやっとのことで凡その見当がついた。上流は河野郷、下に三宅川氏。時期を確かめなくてはならないが、面白くなりそうな予感。コメント# てんゆう 『…こと三宅川です。こちらにもおじゃまさせて頂きます。私がコメントしなくてはならないような記事ですね(笑)あちらでも書きましたが、三宅村を流れる川→三宅川なのですが、名の由来はこれとしても、無縁とは思っていないのが私の正直な気持ちです。美濃と伊勢を又にかけるには、尾張を省くわけにはいかないからです。川の三宅川は、小河川ながら長い距離を持ちます。流路変遷によって小河川となってからも、尾張西部一帯に影響を及ぼしたであろう用排水路的な利水治水の役目を果たす川。そんな同名の川を無視して通り過ぎたとは考えられませんので、もしかしたら一時期旧姓「河野・越智」を名乗っていたのかもしれません。今後とも河野氏のつながりをきっかけに、歴史の研究のご教示の程宜しくお願い致します。』 (2006/08/27 18:50)# imajou 『てんゆうさん、ようこそ。昔は尾張を縦貫する大河であった三宅川を知ると、河野郷の位置に驚かされます。その河野郷と三宅川氏との関係などが判ると面白いのですが、難しいでしょうね。』 (2006/08/27 22:31)

    February 28, 2007

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    中世美濃と尾張の境界

    imajouの独り言(2006-08-22)を転載------------------------------------------------------------- 石野先生の講演資料の中の「中世主要地名分布図」に記載されている地名のうちから、尾張国境の「二木」「市橋」「茜部」がどのような位置であるか調べてみた。幸運なことにこの三つとも現在も地名として残っており、総て境川の右岸に位置している。 中世においては境川が木曾の本流であって美濃と尾張の境と言われているが、そうとするなら上記三つの地名は中世においても境川の右岸に位置し、境川との位置関係は現在と同じである。このことは、境川の規模は中世のそれより小さくなってはいるが、流路は余り変わっていないことを示す。濃尾平野の川の流れは変動が激しかったと推測されるのに、境川が中世から今に至るまで流路がほぼ同じと言うのは不思議な気もするが、流路を維持しようとする治水の努力などが作用したのだろうか。 境川が美濃と尾張の境であったとすると、岐南町笠松町羽島市などは、昔は皆尾張に属していたことになる。それが美濃に移ったのは、木曽川の本流が境川から現在の木曽川に変わった後の出来事のはずだが、その時期は知らない。なお、現在の木曽川天正十四年(1586年)の大洪水で出来たと言う。本能寺の変の4年後に当たるので、信長は現在の木曽川を見ていないことになる。中世から戦国期の濃尾平野の歴史を考えるに際し、木曾川の変動をしっかりと認識しておくことが必要である。

    February 28, 2007

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    墨俣城のイメージが変わる

    imajouの独り言(2006-08-22)を転載------------------------------------------------------------ 戦国期の尾張と美濃の国境が境川であったとすると、墨俣城のイメージがすっかり変わってしまった。木曽川が境だとばかり思っていたので、墨俣は敵地に深く入り込んだ場所と錯覚していたが、本当は国境線である境川を渡ったところ、もしくは国境線の境川の中洲だった。敵地深く入り込んだ場所に築いた城なら、堅固な橋頭堡であることは判る。しかし、国境の川を渡ったところに苦労して墨俣城を築いた理由は何だったのか。考え直す必要がある。

    February 28, 2007

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    岐阜県名鉄竹鼻線を挟む2本の堤防

    imajouの独り言(2006-08-21)を転載----------------------------------------------------- 岐阜県竹鼻線、不破一色駅の辺りで、竹鼻線を挟んで走る2本の堤防があった。その堤防は今は削られて無くなってしまったが、確かに無用の存在と見えた。しかし昔は何らかの必要性があったからこそ、そこに存在したと考えねばならない。考えられる理由として、木曽川長良川が氾濫する危険性が高いので、氾濫に備えて2番目の堤防を設けたという見方はどうだろうか。どうもしっくり来ない。 つい先日、尾州河野郷がかって存在したこと、現在の木曽川は16世紀末近くの氾濫で出来たもので、それ以前は境川が木曾の本流で、尾張と美濃の境だったことを知り、上記の2本の堤防は、境川が木曾本流だった当時の川の堤防だったのではなかったかと閃いた。そこで国土地理院の地図で確かめるとずばりだ。その2本の堤防は、境川と流路の形がそっくりの小さな川を挟んで走っている。この2本の堤防の間隔が昔の川幅であったとすると、今は小さな川だが昔は大きな川だったと推測される。 以上から境川が尾張と美濃の境であれば、岐南町から笠松一宮市に跨る河野郷が尾州であったことも、信長の墨俣城尾張から美濃に入って直ぐの場所であったことも判った。今ひとつ、本流の直ぐ近くに上記の大きな支流があったということは、支流は蛸の足のように何本も存在したであろうと思われる。このように当時の地勢を考えると、昔の美濃・尾張に関する見方が大きく変わる。一つの情報が大きく展開したのは、望外の収穫だった。

    February 28, 2007

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    尾州河野郷と関連して脇屋義助の逃走経路

    imajouの独り言(2006-08-10)から転載---------------------------------------------------- 尾張に河野郷が存在したことと、そしてそれが岐南町笠松町一宮市に跨り、木曽川の両側即ち岐阜と愛知に跨る相当に広い領域であることが談話室で紹介され、びっくり仰天だった。 今日笠松湊を調べていたら、その当時の木曽川は多くの流れに分れ、今の境川が本流であったとの記事を見つけた。そうとすると、河野郷は当時は尾張に属していたことになる。従って、紹介文に尾州河野郷とあったが、それが正しい。 河野郷がこんな場所にあったとすると、脇屋義助土岐氏に敗れた後、東に逃れれば直ぐに河野郷に至る。義介は土居・得能氏の手引きで河野郷に逃れ、ここから水路を辿って伊豫に来たのではなかろうか。これなら判る気がする。 但し、承久の変で河野郷が朝廷方で戦っていたら、戦後潰されたはず。この点を確かめる必要がある。

    February 28, 2007

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    [歴史]伊豫の土岐氏や山方領主たちの消長

    「imajouの独り言」(2005-07-29)から転載--------------------------------------------------------------- 『伊予河野氏と中世瀬戸内世界』54~57頁に、土岐氏や山方領主の消長に関する記述がある。 寛正5(1464)年6月26日、久万山出雲入道跡を大野氏に宛行った重見通熙・森山範直・重見元康連署状が発給されている。翌7月4日には、森山範直が寒水西方の知行権を大野氏に手離したことが判明する。こうして大野・森山・重見氏の協力態勢が固められて行く中で、先に述べた寛正伊予の乱が勃発した。彼ら山方領主たちは細川勢を国内に引き入れて、河野氏に敵対する動きを示すのである。 平岡氏が競望したとされる荏原・久万山地域には土岐一族の所領が存在した〔山内譲-2000〕。文明四(1472)年十一月二十二日、将軍足利義政土岐氏の主張を認めて、美濃・尾張国内の所領とともに伊予の荏原郷西方・久万山内青河等地頭職を「守護使不入の地」として課役免除を行っている。しかし、伊予における権益は不安定だったらしく、土岐氏は大野氏に対して荏原・久万山に関する合力を要請し、土佐・讃岐の細川勢の合力にも期待をかけている。 土岐氏は鎌倉期に伊予に入国し、南北朝期には荏原郷の浄瑠璃寺の再建を成し遂げるなど、荏原地域一帯に勢力を広げていた一族であったが、戦国期になると平岡氏の台頭の前に次第に勢力が衰えていくことになる。 15世紀末から16世紀にかけて、予州家が衰え河野氏惣領家が一元的な支配を展開していく中で、国内領主層の守護河野氏への結集は一層進行して行った。『予陽河野家譜』によれば、永正8(1511)年、自立化をはかる宇和・山方衆を抑えるため、平岡次郎や八倉・出淵・得能氏らが攻撃をかけたとされる。実際、土岐氏や森山氏の姿は史料上から次第に見当たらなくなる。細川氏の影響力が衰える中にあって、彼らは平岡氏の急成長の前に駆逐されていったのではないだろうか。これらの記述から次のような状況が見えて来る。1.大野氏の勢力は寛正5(1464)年には久万山に伸びていた。2.土岐氏が伊予に来たのは鎌倉期。鎌倉期のどの時点かが重要だが、それは判らない。3.平岡氏が台頭し土岐氏を圧迫しつつあったが、文明4(1472)年には、土岐氏はまだ荏原郷西方・久万山内青河等を保持していた。幕府が土岐氏の主張を認めたとは、土岐氏が鎌倉期から持っていた権利を改めて確認したと言う意味ではないか。この時点で新たに「守護使不入の地」としたのではないと思われる。その守護とは、この時点では河野氏であるが、鎌倉期においては宇都宮氏であり、伊豫における土岐氏の立場を暗示する。4.山方領主たちが細川氏と組んだことは、山方領主たちと細川氏の利害が一致していたからで、細川氏の狙いは河野氏を排除し、伊予を直轄支配することであった。6.細川氏は既に河野氏と2郡割譲で和議を結んでいるにも拘わらず、勝元は管領の地位を利用して伊豫支配を目論んでいた。だが細川氏は自身が衰えたことにより、その目論見は成功しなかった。7.河野氏は自立性の強い山方領主の騒動を鎮圧することにより、次第に一元的支配を強めて行った。在来説では叛乱が起きたのは河野氏の弱体化を示すものとしていたが、事実は逆で、河野氏は独立勢力の騒動を鎮圧するごとに支配力を強めて行ったと見るべきである。8.土岐氏の荏原郷西方・久万山内青河等に対する主張を幕府は認めたが、この時幕府の実験者は細川氏であろう。幕府の決定が細川氏の意向だったとすると、土岐氏の主張を認めることにより、平岡氏の進出を押し留め同時に河野氏の支配権を殺ぐと言う効果を狙ったのではなかろうか。一連の動きから見ると、細川氏は伊豫支配を果たすことが目的であり、そのために山方領主をバックアップしたのであって、土岐氏を盛り立てる意志はなかったように感じる。この決定が細川氏でなく将軍自身の裁断なら、別の見方となる。---------------------------------関連年表(参考)1381(永徳元年/弘和元年):河野氏、東予2郡を割譲することで、細川氏と和議成立。1392(明徳3年/元中9年):南北朝合一。1457(長禄元年):河野教通の病により氏族が湯築城に参会する(予陽河野家譜)。1463(寛正4年):河野氏家臣、重見、森山、南、得能、和田氏らが一揆を企て、細川軍を引き入れようとする。        通春および教通の弟通生は大内氏に救援を依頼し、共同して細川軍に対抗。(寛正伊予の乱)1465(寛正6年):大内政弘、「井付合戦」における内藤彌七の戦功を賞す(萩藩閥閲録)。   ?   :敗れた森山氏は道前に走ったが殺され、南・得能氏も湯月禅城寺で生害、重見飛騨守も湊山城で生害。        河野氏の影響力強化を意味する。年未詳    :細川政元書状によれば、浮穴郡の久万山に対する「平岡競望」を退けるよう政元が河野通直に申し遣わし、大野氏にも協力を求めた。宇都宮・森山両氏にも相談して平岡氏を退けるよう求めている。1467(応仁元年):応仁の乱起こる。1472(文明四年):将軍足利義政土岐氏の主張を認めて、美濃・尾張国内の所領とともに伊予の荏原郷西方・久万山内青河等地頭職を「守護使不入の地」として課役免除を行う。1475(文明7年) :檀那河野通直(教通)、願主弥阿弥陀仏によって木像一遍上人立像(国指定重要文化財)造立。1481(文明13年):河野通直(教通)、石手寺の山門・本堂などを再興する。1482(文明14年) :河野通春、湊山城で死去する。1519(永正16年):河野通宣死去1535(天文4年):「温付堀」の普請が行われる(国分寺文書・仙遊寺文書)。これは弾正少弼通直による湯築城拡張工事を示す記述と考えられる。

    February 20, 2007

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    小川土佐守が湯築城を訪れた可能性

     「土州様」とは誰かと言う件で、遊行笑人さんから「小川土佐守」なる人物が居るとの指摘があり、その人物に関して調べた結果を談話室ゆづきに投稿した。以下2本の破線の間はその投稿記事である。-------------------------------------------------------------------#5419 小川土佐守は可能性が無さそう  今城  02/17 19:59 小川土佐守のことがウィキペディアに載っていました。 ウィキペディアの小川祐忠の項に次のように記されています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E7%A5%90%E5%BF%A0 参照)小川 祐忠(おがわ すけただ) : 天文18年(1549年) - 慶長6年(1601年) 戦国時代の武将。通称は左平次、孫一郎。官位は土佐守。左近太夫。正室は一柳直高娘。子に右馬允、小川祐滋(右馬允、光氏と同一人物か?)、小川良氏、千橘らがいる。大名とも日田代官とも言われる小川光氏は長男と言われる。 慶長3年伊予今治7万石を与えられ、国府城を居城とした。 1600(慶長5年)、関ヶ原の戦いでは当初、西軍に与していたが小早川秀秋の寝返りに呼応して東軍に寝返り、家臣小川甚助の郎党樫井正信が平塚為広を討ち取るなど武功を上げて東軍の勝利を決定づけ、佐和山城攻略戦にも参加した。しかし、通款を明らかにしなかったことを咎められ、戦後、改易された。 この前後の伊豫の状況を年表形式で纏めると、次のようになります。 1585(天正13年) 小早川隆景豊臣秀吉の命により伊予に侵攻。河野通直、湯築城を開いて降伏する(予陽河野家譜)。 1587(天正15年) 福島正則が伊予を拝領し、湯築城は廃城となる(予陽河野家譜)。河野通直、伊予を離れて安芸の竹原で死去。 1595(文禄4年) 加藤嘉明、正木(松前)城主として伊予に入部。 1598(慶長3年)  小川祐忠、慶長3年伊予今治7万石を与えられ、国府城を居城とした。 1600(慶長5年)  小川祐忠、関ヶ原の戦いでは当初、西軍に与していたが小早川秀秋の寝返りに呼応して東軍に寝返るも、戦後、改易された。 1602(慶長7年) 加藤嘉明松山城の建設をはじめる。 以上から見ますと、小川土佐守が伊豫に来たのは湯築城が廃城になった後ですので、湯築城を訪れる機会は無かったと考えられます。従がって小川土佐守は、出土した墨書土器の「土州様」では無いと結論づけて良いでしょう。一人消えました。------------------------------------------------------------------- しかしよくよく考えると、小川土佐守が湯築城に来た可能性が全く無いわけではない。福島正則は湯築城を廃城としたが、建物が壊されたのは加藤嘉明松山城を築いた時であったとすれば、小川土佐守が今治の国府城に入った時、湯築城はまだ壊されていなかったことになる。その時から関が原の合戦までの2年間に加藤嘉明を訪ね、嘉明は小川土佐守と共に湯築城を訪れ、そこで酒宴を催したことは無かったか。もしあったならば「土州様」と書かれた土師質土器がこの時に残った可能性はある。何らかの記録は無いものか。

    February 17, 2007

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    「土州様」と書かれた墨書土器について

     「土州様」と書かれた墨書土器について、現時点での考えを整理しておく。1.墨書土器の説明文 『土師質土器に文字を書いたものが出土しています。「月」「太」「仲」「洗」などはっきり読み取ることができます。 墨書土器が捨てられていた土器溜りでは、「妙祐」「土州様」など人の名前と、「茶」「泉」「仙」などの文字が書かれた杯が出土しています。行司のあとに、使用した皿や杯に、その場で文字を書いて捨てたものと思われます。』2.この説明文に関する疑問点 捨てるものに何故文字を書いたのか。理由があるのか、単なる落書きか。3.使われた時期 土師質土器は一度使ったら捨てるのが普通。出土した場所が湯築城の拡張区域であるので、使われた時期は湯築城拡張後、1535年以降と推測するのが自然である。4.土州様とは誰を指すか 豫州殿とは伊豫守を名乗る人物、同じく對州は對島守、豆州は伊豆守であるから、土州様とは土佐守を名乗る人物と考えるべきである。従がってこの「土州様」を特定するには、湯築城拡張の時から廃城になるまでの間に、土佐守を名乗った人物は誰か、その中で伊豫に来たのは誰かを明らかにすることが先決である。なお、土佐守を名乗る人物とは、正式に官位を授かった人だけでなく、土佐守を自称する人も対象として調べるべきであろう。5.該当する人物は 長曽我部元親と延原土佐守の二人。これ以外に居たかどうか。6.土佐守を名乗る人物が伊豫に来たことがあるか 元親が土佐守になったのはいつか。その後、伊豫に来たか。来たとすればいつか。 延原土佐守は伊豫に来たか。

    February 16, 2007

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    湯築城で出土した瓦について

     ここに記す湯築城で出土した瓦の考察は、「談話室ゆづき」に投稿したものであるが、後々、岡豊城と同文の瓦及び土州様と書かれた墨書土器の考察を纏める際に必要と思われるので、一部加筆・修正してここに収録しておく。#5406 湯築城で出土した瓦  今城  02/15 18:25 湯築城で出土した瓦について思う所を述べて見ます。1.瓦の紋様  出土した瓦の紋様は、岡豊城及び中村城の瓦と同じですが、版木は異なります。この紋様はほかには無いのかどうか、この点を確認する必要があります。つまり、上記三つの城以外に存在しない場合と、ほかにも存在する場合とでは、見方が全く異なります。 2.瓦の製作時期 上記三つの瓦の製作時期を明確にすることが必要です。湯築城出土の瓦は、城内のどこで使われていたのか不明です。拡張区域で使われたものなら、年代は50年程の間に限定されますが、そうでないなら製作時期は、可能性として200年或いはそれ以上に広がります。もし非常に古いものであるなら、上記三者のうち一番古い可能性も有り得ます。分析で製作時期を調べる必要があります。3.廃棄された時期 これはほぼ特定出来そうです。出土した場所が大手門近くの排水溝であり、この排水溝は湯築城が廃城になるまで使われていた筈ですので、そこに捨てられていたからには、廃城になった時かそれより後となります。考えられるのは加藤嘉明松山城を築いた時で、この可能性が強いのではないでしょうか。つまり、使える物は持って行き、不要なものを捨てたと言うことです。平瓦の出土が少ないのは、再利用された可能性が高いことを暗示します。もう一つの可能性は、福島正則の時代で、湯築城が廃城になったときです。4.製作者 紋様が同じと言うことは、同一工人または同一工人グループの手になるものと考えられます。しかし、それがどこの工人であるか、現時点では不明です。5.製作場所 湯築城の瓦と岡豊城の瓦は硬さが違いますので、製作場所、竈は異なります。土を分析すればどこの土であるか判るはずと思います。その結果によって製作場所も手懸りが得られるのではないでしょうか。 以上述べた事柄は、私が詳細を知らないだけかも知れませんが、この瓦を考える上で抑えて置く必要があるでしょう。

    February 15, 2007

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    土州様と書かれた墨書土器についての考察、

    1.「土州様」と書かれた墨書土器はいつごろのものか。 出土した場所は湯築城拡張部であることから、湯築城拡張時(1535年)以後のものと考えられる。【注】出土場所は南西の隅と聞いたと記憶するが、出土場所と出土した層を確認する要あり。2.土州様とは誰を指しているのか。 土州様とは土佐の領主(支配者)であろうから、湯築城拡張以降の土佐の支配者の変遷を整理してみる。(訂正:土州様とは土佐守を指す言葉で、土佐の支配者ではない。従って、土佐の支配者を探るのは意味が無いことだが、下記の年表は消さずに置く。)------------------------------------    年       事跡                       土佐領主(支配者)------------------------------------ 1535年(天文4年) 湯築城拡張 (弾正少弼通直)-----------------------------------------------------(この時期は一条氏)                            1568年(永禄11年) 鳥坂山合戦 長曽我部氏は一条氏に随って兵を出している。 1569年(永禄12年) 長曽我部氏と一条氏は境を接するに至る。                 -------------------------(長曽我部氏が土佐の領主となるのはこれより後。) 1573年(天正元年) 室町幕府滅亡 1574年(天正2年) 長曽我部元親一条兼定を豊後に追放。 1575年(天正 3年) 長曽我部元親、土佐平定。------------(これ以降は元親) 1582年(天正10年) 本能寺の変 1584年(天正12年) 元親、讃岐平定。(6月) 1585年(天正13年) 元親、秀吉に敗れ、土佐一国を安堵さる。             河野通直(牛福)、小早川隆景に降伏。 1587年(天正16年) 福島正則が伊豫を拝領。湯築城は廃城となる。------------------------------------ 上記年表から見る限り、元親が土佐を実質的に支配したのは、早く見ても1569年であり、その前は一条氏が上位にある。長曽我部氏が名実共に土佐の支配者となったのは、1574年か1575年である。この間、一条氏か長曽我部氏が湯築城を訪れる機会があったであろうか。一条氏は鳥坂山合戦の前から宇和の西園寺氏と戦いを繰り返し、長曽我部氏も土佐の実権を握った後、度々伊豫に侵攻し、河野氏西園寺氏と戦っている。この状況下で河野氏時代に湯築城を訪れる機会があったとは考えられない。 可能性が残るのは、河野氏滅亡後小早川隆景が伊豫を拝領していた2年間ではなかろうか。この2年間に元親が湯築城に来たことは無いだろうか。3.土州様とは土佐守のことか? ここまで書いて気が付いたのだが、土州様とは土佐守の官位を持つ人を指しているのかも知れない。そうであるなら土州様を一条氏や長宗我部氏でなくても、この時期の土佐守の官位を持つ人物を検討すべきである。歴代土佐守を記した資料は無いだろうか。

    February 11, 2007

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    湯築城出土瓦と墨書土器雑感

     湯築城出土の軒平瓦が岡豊城や中村城の瓦と同じ紋様を持つ。ただし、版木や窯は同じではない。瓦の大きさと厚さも異なる。今判っていることはここまでである。これだけで土佐と関係ありと断じるのは無理。同じ紋様の瓦はこの三つの城以外に出土しないのだろうか。 シンポジウムの資料の中に、岡山でも同紋の瓦が出ていることを示すと解される図がある。これの説明を聞き漏らしたのか、当日説明を聞いた覚えがないので確かめる必要がある。もし湯築城・岡豊城・中村城以外からも同紋の瓦が出土しているなら、そちらとの関係をきちんと分析して、初めて湯築城の瓦がどこと関係しているのかが判明する。更に、どこの土か分析する必要がある。現時点で湯築城の出土瓦が土佐と関係ありと結論付けるのは時期尚早であると思う。 次に疑問なのはこの瓦がいつ、どのよな建物に使われたのか、そして、いつ、どうして捨てられたかである。長曽我部氏の四国制覇は豊臣軍の侵攻で後一歩のところで挫折したと思われる。一歩譲って湯築城も陥としたとしても、その後、岡豊城と同紋の瓦を使った建物を造る時間的な余裕は無かったと思われる。では誰がいつこの瓦を使った建物を造ったのか。今は不明である。 捨てられた時期は、発見された場所が東門近くの排水溝であり、その排水溝は湯築城が廃城となるまで使われていた筈であることから、湯築城が廃城になった時、またはその後と考えるべきである。 出土したのは軒平瓦と軒丸瓦で、平瓦は少なかったらしい。これは紋の入った瓦は捨てられ、紋の付いていない平瓦は再利用されたことを窺わせる。 今一つ、土州様の文字が記されている墨書土器も現時点では謎と言うべきだろう。墨書土器で「様」を付けたのは異例と聞いたような気がする。それは兎も角として、「土州様」とは土佐の当主であろう。それは時期から考えて長曽我部氏なら元親であろうが、元親が湯築城に来たことがあるとは考え難い。来ていないとすると、土州様とは誰なのか、何故土州様と記したのか、現時点では説明不能と思われる。土佐の領主で湯築城に来た人がいるだろうか。居たとしてそれは誰か。文献史学の方から追求すべきことであろう。 このように疑問は殆ど解明されていない現時点では、岡豊城と同じ紋様を持つ瓦の出土と、土州様と書かれた土器があったことの二つだけで、土佐との関係を推測するのは不可能であり、これを以って長曽我部氏が湯築城を陥とした証拠とみるのも早計であり、更なる研究の進展に期待するしかない。注:一部追加(2007/02/10)。訂正(2007/02/11)

    February 9, 2007

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    第1回シンポジウム「河野氏と湯築城をとりまく諸問題」

    第1回シンポジウム「河野氏と湯築城をとりまく諸問題」開催の趣旨:文献史学と考古学の研究者によって、遺跡を媒介として伊予の中世史について共通の課題を設定し、互いの方法を持ち寄って研究、交流し、総合的に伊予の中世史を論じていく。報告者:川岡勉教授、西尾和美教授(文献史学)。 中野良一氏、柴田圭子氏、松村さを里氏(考古学)----------------------------------全体の纏めは後日行うこととして、ここでは中野良一氏の瓦に関する見解について記す。1.瓦の紋様 長曽我部氏の岡豊城で出土した瓦と同笵ではないが同文。紋様の寸法は一致しているが、瓦全体の大きさや厚さは異なる。両者の紋様はシャープさが異なる。岡豊城の瓦の紋様はシャープで、版木が新しいことを示す。湯築城のそれは、かなり使い込まれた版木で造られたものである。同文であることは、同じ工人によって作られたものである。ただし、両者の硬さは異なるので、焼いた窯は異なる。これは出来上がったものを運んだのではなく、別々の地域で焼いたことを意味する。(注:資料に同文、同笵とあるのでその字を使ったが、同文は同紋、同笵は同版と同義か?)2.長曽我部氏の技術の伝播 長曽我部氏が侵攻した跡に、同氏の技術が残されている。長曽我部氏が陥した城に、畝状竪掘が認められることと、主郭、サブの郭、その下に堀切と言う共通の縄張りの例を示して説明。湯築城の縄張りも極めて類似することを指摘。3.湯築城で岡豊城と同文の瓦が出土したことは、長曽我部氏の影響があったことを示す。4.出土した場所は大手門を入って左側から南に伸びる溝で、纏めて埋まっていた。 この問題提起に対し、日和佐氏(愛媛)、松田氏(高知)らからそれぞれ見解が示された。A.中野氏が示した紋様の瓦が出土するのは、岡豊城、中村城と湯築城だけである。長曽我部氏が侵攻した城全部に存在するものではない。B.畝状竪掘は長曽我部氏の技術と言うよりは、高岡郡の技術である。長曽我部氏には複数の軍団があり、高岡勢が侵攻した跡に畝状竪掘が残されているが、その他の軍団が進んだ地域には無い。C.縄張りは地勢と強く関係する。地勢との関係で見なければならぬ。湯築城の東北部の切り欠きも地勢の関係である。D.畝状竪掘は最初新潟で見つかり、全国にある。毛利氏にもある。これの伝播経路は一つではなく、複数の経路を考える必要がある。 まだ色々とあったと思うが、記憶に残った中の主なものを記した。この発表と討論を聞いての感想を記す。ア.岡豊城の出土瓦と同文の瓦が出土したことは、長曽我部氏と河野氏の間に何らかの関係があった可能性を示唆するものではあるが、長曽我部氏が湯築城を陥としたことを意味すると見るのは短絡的に過ぎるのではないか。イ.以前、長曽我部軍の進攻年月日を整理したことがあるが、湯築城近くまで来たとき、秀長軍が四国に上陸し、湯築城を攻める間は無かったと感じた。ウ.川岡先生は長曽我部軍が攻めたことがはっきりしている城に関しては、戦闘を示す一次史料が存在するが、湯築城での戦闘を示す史料が見当たらないことを指摘していらっしゃる。当時湯築城には小早川氏の家臣が常駐していたので、ここで戦闘があれば、小早川氏、或いは毛利氏の文書に記録が残る筈だが、それも無いとのこと。エ.湯築城の堀切が造られた時期は、出土物が無く、不明である。可能性としては最初の段階で造われ、そこから南側の部分を軍事拠点として使ったと言う仮説もあり得る。その後、内堀などが整備され、堀切は無用となって埋められえたのではなかろうか。この見方は地勢に基づくもので、長曽我部氏とは無関係である。オ.瓦が捨てられていた溝は、湯築城が現役の間は常時使用されていたものである。その溝に埋めたと言うことは溝が不要となったことを意味し、その時期は湯築城が廃城となった後でなければならない。カ.今回問題となっている瓦と同文或いは同笵瓦は他の地域には存在しないのか。存在するなら、そちらとの関係も考慮しなければならない。----------------------------------------------------------------- 以上記したように、結論を出すにはまだ資料不足である。ここで言えるのは、湯築城から岡豊城の出土瓦と同じ紋様を持つ瓦が出土したこと、文献史学の立場から長曽我部軍が湯築城を陥とした、或いは湯築城で戦ったことを示す史料が現時点では見つかっていないと言うことで、結論は今後の研究を待たねばならない。結論は出ないが非常に面白い内容であった。

    January 28, 2007

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  • 湯築城跡、道後町遺跡の出土資料の見学会

     愛媛県埋蔵文化財調査センターで開かれた「湯築城跡、道後町遺跡の出土資料の見学会」に行って来た。今日見たのは大部分が土器、陶磁器で、正直見ただけでは判らないが、同センターや他県、他市の学芸員同士の話を横で聞いていると、思いがけない内容が耳に飛び込んで来た。忘れぬ内にその幾つかを記して置く。1.同じ紋様が刻まれた湯築城・岡豊城の出土品(左が湯築城大手門近く、右が岡豊城の出土品。)2.土州様と記された墨書土器3.墨書土器の説明文4.ベトナム製の陶磁器(道後町遺跡から出土)5.年代特定が懸案の瓦(湯築城大手門近くから出土) これら出土遺物の持つ意義は非常に大きいらしいことが、話の節々から汲み取ることが出来た。その件については明日のシンポジウム「河野氏と湯築城をとりまく諸問題」で議論されるらしいので、それを楽しみに出席しよう。

    January 27, 2007

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    中世美濃と尾張の境界(2)

    墨俣城のイメージが変わる 戦国期の尾張と美濃の国境が境川であったとすると、墨俣城のイメージがすっかり変わってしまった。木曽川が境だとばかり思っていたので、墨俣は敵地に深く入り込んだ場所と錯覚していたが、本当は国境線である境川を渡ったところ、もしくは国境線の境川の中洲だった。敵地深く入り込んだ場所に築いた城なら、堅固な橋頭堡であることは判る。しかし、国境の川を渡ったところに苦労して墨俣城を築いた理由は何だったのか。考え直す必要がある。【imajouの独り言から保存のため転載】境川と長良川の合流点に関する疑問 境川は岐南町の周辺に沿って西進し、川手を右にみながら南に向きを変えて笠松町の西方を南下し、また西へ、更に南へ、西へと何回も向きを変え、長良大橋のちょっと南で長良川に合流する寸前、また南に向きを変えてしまいます。ここから先の合流点までの流路は直線状で、人工流路の匂いが強いのですが、如何でしょうか。人工流路としますと、それを造った理由は治水と利水の両面が考えられます。 境川が最後に南に向きを変えたのは人工であって、本来は向きを変えずにそのまま長良川に合流していたとすると、その位置は現在の墨俣町上宿の対岸になります。【談話室ゆづき投稿記事】墨俣河野氏の支配地はどこ? 中世の墨俣とはどこか、どの範囲かを先ず確かめなければなりません。現在の墨俣町は再三にわたって町村合併を繰り返して今に至っています。「中世主要地名分布図」には墨俣はありません。現在の墨俣町のあたりと思われる所に二木荘があります。墨俣村は恐らく小村だったのでしょう。 Wikipediaの「安八郡」を見ますと、墨俣町の変遷が或る程度推測できます。関係箇所を抜書きします。 ・明治22年7月1日 町村制施行(2町107村)    墨俣村、西橋村、下宿村、二ツ木村 (墨俣町) ・明治27年9月24日 墨俣村が町制施行して墨俣町となった。(4町105村) ・明治30年4月1日 (3町19村)    墨俣町、西橋村、下宿村、二ツ木村が合併して墨俣町となった。 ・平成18年3月27日 墨俣町が大垣市に編入された。(3町) この変遷記事と地図を眺めますと、中世に墨俣と呼ばれたのは墨俣村で、現在の墨俣町墨俣ではなかったかと推測されます。その位置は#4889に記した墨俣町上宿の北側で、現在長良大橋が架かっているところです。そして両者の西側に接するのが墨俣町二ツ木です。つまり現在は二ツ木は墨俣町の一部ですが、中世では二木荘に墨俣村が属していたのではないでしょうか。 過日の歴史懇談会における石野先生の資料には、河野氏の名が二木郷とともに出て来ますが、この資料だけでは河野氏の所領がどこか、どれ程の力を持っていたのかなど、全くわかりません。従って墨俣の河野氏がどの程度の勢力を持っていたのか不明で、別途解明を要する問題です。 それは兎も角として、境川がここで長良川に合流していたとすると(その可能性は高いと思います)、河口から遡って来た場合、ここが稲葉山方面と尾州河野郷方面への分岐点で、河川交通の要衝だったと思われます。河野氏なら当然目を付けそうな場所です。このように見ますと、墨俣河野氏尾州河野郷が成立した時期や関連を一日も早く解明して欲しいと願わずには居られません。【談話室ゆづき投稿記事】

    August 23, 2006

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    中世美濃と尾張の境界(1)

     8月19日の美濃源氏フォーラムin伊予の歴史懇談会における、石野先生の講演資料の中の「中世主要地名分布図」に記載されている地名のうちから、尾張国境の「二木」「市橋」「茜部」がどのような位置であるか調べてみた。幸運なことにこの三つとも現在も地名として残っており、総て境川の右岸に位置している。 中世においては境川が木曾の本流であって美濃と尾張の境と言われているが、そうとするなら上記三つの地名は中世においても境川の右岸に位置し、境川との位置関係は現在と同じである。このことは、境川の規模は中世のそれより小さくなってはいるが、流路は余り変わっていないことを示す。濃尾平野の川の流れは変動が激しかったと推測されるのに、境川が中世から今に至るまで流路がほぼ同じと言うのは不思議な気もするが、流路を維持しようとする治水の努力などが作用したのだろうか。 境川が美濃と尾張の境であったとすると、岐南町笠松町羽島市などは、昔は皆尾張に属していたことになる。それが美濃に移ったのは、木曽川の本流が境川から現在の木曽川に変わった後の出来事のはずだが、その時期は知らない。なお、現在の木曽川天正十四年(1586年)の大洪水で出来たと言う。本能寺の変の4年後に当たるので、信長は現在の木曽川を見ていないことになる。中世から戦国期の濃尾平野の歴史を考えるに際し、木曾川の変動をしっかりと認識しておくことが必要である。【imajouの独り言から保存のため転載】

    August 23, 2006

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    来島通総が珍島に眠る謎

    今日たまたま出会ったブログ「クランケ珍島」に「来島通総=馬多時」と題する記事を見つけた。その記事の最後に、----------------------------------------- 漁民は海で死体を発見すると、そのまま過ぎることはない。必ず収拾し安らかに埋葬してやるのが礼法である。海に浮く死体を見つけ、それを放置するとその死体が船の後を付いてくる!ということわざを今も信じている。 「倭徳山」といわれるこの場所は今は誰も訪ねる者がない。菜の花が淋しく揺れるだけだ。 今にして400年前の歴史が紐解かれ、ここに眠る魂の恨みが少しでも解かれることを祈るだけである。-----------------------------------------と、そこに来島通総らが葬られたいきさつが記されている。この通りだとすると、日韓の文化は大きく異なるが、海民には共通する文化、或いは意識が存在したのだと思わせるものがある。これで謎が解けた気がする。貴重な情報を齎して下さった恵子3126さんに感謝したい。

    June 26, 2006

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    樽味四反地遺跡

    樽味四反地遺跡現地説明会(2006-02-18) 樽味四反地遺跡第13次調査の現地説明会に行く。報告は第12次・13次調査に跨って行われた。第6・8次調査で見つかった太い柱を使った高床式建物のような劇的な発見は無く、地味な内容だったが、大型建物区域を囲むと見られる環濠が出土した。樽味遺跡の全貌はまだ判っていないが、相当に大きいことは間違い無い。第13次調査区域から少し南西に行くと急激に低くなり、この辺りは舌状台地の西端に近い。北はすぐ近くに草葉川とその向こうに石手川が流れて居ることから、この辺りが北端に近いと思われる。従って樽味遺跡はここから東と南に広がっていると見て良いだろう。どこまで広がるか、今後の調査が楽しみである。帰りしなに調査に当たって当時の地勢も明らかにして欲しいと要望しておいた。樽味遺跡の存在から判る古代石手川の位置(2006-02-20) 18日(土)の樽味四反地遺跡現地説明会に行って、樽味遺跡のイメージが漸く具体化し始めた。樽味遺跡がある場所が舌状台地であることは直ぐに理解できたが、そこの標高を聞いて驚いた。道後から南に行くにつれて低くなって行くので、樽味遺跡も道後より低いものと推測していて、何でそんな低いところに集落があったのか疑問に思っていた。説明会が終わってから発掘担当者に標高を尋ねたら、凡そ40mとの答え。何と道後と変わらない。南北で切った断面図を描くと、道後から次第に低くなり、樽味遺跡の北で急激に高くなっているのだ。縄文・弥生時代より前から石手川はその一番低いところを流れていたのだろう。足立重信が改修する前の石手川は、現在の石手川の南岸を南限とし、北岸は愛媛大学付属小学校の真ん中辺りまでの幅を有する大河だったと考えられる。このようにイメージがはっきりしたお陰で、色々なことが考えやすくなった。今回の説明会の大きな収穫。樽味遺跡の王が統べる国(2006-02-21) 樽味遺跡が外交権を持つ国であったとすると、その版図はどの範囲だったか。魏志倭人伝によると、一つの国の戸数は千戸から五万戸である。外交権を持つなら有力な国であった筈であるから、戸数は万の単位であろう。 松山平野の弥生遺跡は多いが、それらが独立した国であったのか、樽味遺跡に在す王が統べる国の一部であったのか。樽味遺跡の範囲はまだ未確認であるが、ここだけで万の単位の戸数があったとは思えない。戸数が万単位となると、樽味遺跡を中心とし、付近に点在する文京遺跡その他の弥生集落は、樽味遺跡に在す王が統べる国に属していたのではなかろうか。魏志倭人伝が伝える国はかなりの広さを持っているので、松山平野に点在する弥生集落全部で一つの国を形成していたと考えても可笑しくはないだろう。弥生時代の集落地図を描いてみたら面白い。樽味遺跡の現地説明会に行ったおかげで、弥生時代のイメージが描けるようになった。【保存のため「imajouの独り言」から転載】

    June 14, 2006

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    湯築城が「日本100名城」に選ばれる

     財団法人日本城郭協会が選定を進めていた「日本100名城」に湯築城が入選。今回の「日本100名城」は、来年日本城郭協会が財団法人となって40周年を迎える記念事業として、文部科学省文化庁の後援を得て企画されたもので、日本が世界に誇る文化遺産であり地域の歴史的シンボルである城郭が、生涯学習の場や子どもたちの総合的な学習の場としても活用されることをねらったと言う。そのためまず選定対象を (1)優れた文化財・史跡、 (2)著名な歴史の舞台、 (3)時代・地域の代表、と規定し、各都道府県から1城以上5城以内が選定された。 従来城と言うと近世城郭に目が行きがちで、城とは天守閣と勘違いされるほどであったが、今回の100名城はそのような偏りを排し、「建築・土木・考古・歴史など各分野の専門家が検討、最新の保存復元情報と学問的成果を反映した名城を選定」したとの新谷洋二選定委員長の談話は、城を見そして語る上で誠に当を得たものと賛意を表したい。 湯築城に対する認識が十分とは言えない行政や地元の温泉旅館組合・商店街は、今回の選定結果をどう見るか見物である。【保存のため「imajouの独り言(2006-02-15)」を転載】

    June 14, 2006

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    初めて知った「さざれ石」

     誠に恥ずかしいことだが、「さざれ石」とはどういうものかを今日初めて知った。「さざれ石」とは「細石」と書くので、細かい石、小さな石のことで、「さざれ石の巌となりて、苔のむすまで」とは長い年月の比喩と思っていた。今日偶然「さざれ石」とは「小さな石の欠片の集まりが炭酸カルシウム(CaCO3)などにより埋められ、1つの大きな石の塊に変化したもの」であり、成長するものであることを知った。従って「君が代」の歌詞は比喩でなく、科学的事実を歌っている。 その「さざれ石」は、日本では滋賀、岐阜県境の伊吹山が主要産地であり、岐阜県揖斐川町春日には君が代の由来となったといわれるさざれ石があること、そのさざれ石は岐阜県の天然記念物に指定されており、さざれ石とその周囲には「さざれ石公園」が設けられていることなどを併せ知った。このことは今まで全然聞いたことが無い。考えて見れば非常に不思議なことである。「さざれ石」について記すサイトは『さざれ石 - Wikipedia』『Gifu University CRDC 図鑑-岐阜県の地学 春日村さざれ石公園』『ほんとうの「さざれ石」の話』など沢山ある。【保存のため「imajouの独り言(2006-02-11)」から転載】

    June 14, 2006

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    韓国珍島に眠る来島通総(続き)

     談話室ゆづきの#4626で遊行笑人さんは、「今城殿の珍島の来島通総が葬られた墓の現在に至る供養の情報は、なぜ?敵地の住人が其れほどまでに守られて居られたのか?寧ろ憎き敵兵の将なれば、不思議な感じがした。」として、倭寇との関連に目を向けている。それによると、南北朝統一の時期、倭寇の活動は沈静化が進み、朝鮮の側も倭寇に土地や家屋を与えて優遇政策を採り、投化倭人帰化人?投降する人)が多く出ている様だという。そして、瀬戸内水軍の頭領来島通総墓所がある珍島に土着した『投化倭人』の中に、伊予水軍の関係者が多く居られたものと推測すれば、菩提を弔う伝統が未だに保たれて居るのも頷けると結んでいる。 確かに、朝鮮側の敵の死体を切り刻む野蛮な仕打ちと、敵味方を問わず戦死者の菩提を今に至るまで弔う行為とは相容れず、いささか戸惑いと言うか違和感を感じる。この二つの行為は明らかに異なる文化に属する。珍島の墓は公式には知られていなかったと言うことからも、今まで表沙汰にせずひっそりと守って来たと言う印象である。死体に対する残酷な仕打ちは彼の地の文化、敵味方を問わず死者を弔うのはこなたの文化。笑人さんが推測する類の歴史上の事実を想像しても、穿ちすぎではないだろう。【追記】「クランケ珍島」のJune 22, 2006の記事「来島通総=馬多時」に珍島島民が来島通総らを葬った理由が記されているのを発見。是非ご覧下さい。(June 26, 2006記す)

    June 10, 2006

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    韓国珍島に眠る村上通総

     『韓国に眠る来島水軍を知って』と題して、広島の大学教授日隈健壬氏の注目すべき投稿が愛媛新聞に載っていた。同投稿は、珍島に慶長の役で討ち死にした村上通総たちを葬った墓があり、代々供養してくれている老人からのお願いを伝えるとして、殆ど公になっていない同島に眠る来島水軍の史実を、多くの人に知って欲しいと結んでいる(5月24日付け愛媛新聞26面)。来島村上氏の後裔久留嶋家の方々の目に止まることを祈りたい。 その珍島は、潮の干満の差で潮が引いたときに、コグンミョン・フェドンニ(古郡面回洞里)と、ウィシンミョンモドリ(義新面茅島里)の間、約2.8キロメートルに渡って、海底が道のように現れる『神秘の海道』で世界的に広く知られる。「現代版モーゼの奇跡」といわれるこの神秘の海道は、1975年フランス大使が珍島観光に来たとき、この現象を目撃してフランスの新聞に紹介し、世界的に知られるようになったのだそうだ。『珍島”海割れ”紀行3』に詳しく紹介されている。【imajouの独り言(2006-05-24)から転載】

    May 26, 2006

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  • 道後に残る条里制の跡(3)

    疑問・ 戦いの最中に築城工事は可能か。・ 堀切は何のために掘られたか。・ 東側平坦部の東半分は古代の状態を今に残している。これをどう見るか。・ 内堀土塁が堀の外側にあったのは何故か。・ 内堀土塁と外堀土塁が合流する場所に発見された厚さ約40cmの砂の層の存在は何を物語るか。・ 拡張後、内堀土塁が次第に削られたのは何故か。・ 内堀、外堀は全部人工か。・ 城の南東で水路と道が交差するのは何故か。・ 道後遺跡で出土した護岸施設は何か。・ 城の西側凡そ200mのところに湯築城拡張時まで存在した一町四方の構造物は何か。・ 内堀、外堀とも自然の河川を利用しているのではないか。堀切(湯築城資料館展示模型の写真に加工)湯築城の規模の変遷(推定)【湯築城資料館展示資料を用いて作成】湯築城についての私見・ 湯築城はI期、II期、III期の三つの段階で考えるべきである。・ 湯築城は当時としては非常に先進的な城郭であった。二重掘を具え、平山城であり、城内に居住区を取り込んでいる。これらは何れも近世城郭の特徴であり、安土城に始まるとされている。ところが湯築城は地勢を巧みに生かして、安土城より40年も前に独自の発想でこれらを実現した。・堀を掘削後も水利権は維持されている。東西に流れる5本の水路に水を供給する南北の水路を外堀に取り込んだ後も、5本の水路に水を供給する機能は外堀が継承した。即ち湯築城の堀は道後平野の農業用水系の一部である。水利権は変えられない。・湯築城は海と直結する城であった。電車道と御出筋の水路は、一方通行で舟が往来し、水運を担っていたのではないか。(参考資料の2枚の図参照)・ 湯築城跡の出土遺物は、湯築城が海外交易の拠点であったことを窺わせる。・ 城の南北を流れる2つの川とあわせて、実質三重堀であった。参考資料江戸時代の古図温泉郡道後村絵図 天明6年(1786)の道後村道後温泉建設百周年記念「伊予の湯」p46(子規記念博物館友の会発行)】

    May 26, 2006

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  • 道後に残る条里制の跡(2)

    地図上で見る条里制の跡現存する水路・道と一町四方の升目との一致【国土地理院数値地図により作成】条里制を布いたときの道後の水路(推定)条里制を布いた時の推定水路【国土地理院一万分の一地図に基づき作成】 道後平野で条里制が布かれた時期は明確ではないが、比較的遅いと言われているので鎌倉時代か。湯築城が築かれた時期は不明だが、建武年間との伝承あり。河野氏の略系図河野氏略系図【湯築城資料館展示資料に加筆】湯築城の変遷(推定)第一期:丘陵部の堀切から南・・・南朝方の強い道後平野に築いた北朝方の橋頭堡第二期:丘陵部と東側の平坦部・・伊豫の守護河野氏の本城、守護館は外部か?第三期:外堀の内側全部・・・・・・戦乱に備えて防備を強化、守護館も内部に取込む?建武前後の伊豫の状況1333(元弘三)       鎌倉幕府が滅亡して、建武政権成立。1336(建武三・延元一)  河野通盛、足利尊氏に従い各地を転戦。 この頃 湯築城が築かれたらしい。1342(康永一・興国三)   南朝方の忽那氏、湯築城を攻める(忽那一族軍忠次第)。1364(貞治三・正平十九)細川軍の伊予侵攻により河野通朝が世田山城で戦死する。               息子の通堯は湯築城を細川勢に奪われて恵良城に引き籠る(予章記)。1365(貞治四・正平二〇) 河野通堯、湯築城を包囲して細川勢と戦うが、やがて九州へ逃れ(予陽河野家譜)、南朝方に転じる。1368(応安一・正平二六) 通堯帰国して北朝勢力を撃退し伊豫の平定を果たす。

    May 26, 2006

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    道後に残る条里制の跡(1)

    本稿は「松山観光コンベンション協会」の依頼で行った講演の資料である。    ---------------------------------------------------       【道後に残る条里制の跡】              ~水利・水運 そして湯築城の防備を担う~道後の道・水路 湯築城の西側では東西方向に平行に走る。→ 条里制の跡(道後平野に多く残る)条里制 古代における土地区画制度。碁盤の目状に、1辺1町(約109m)の方形区画を坪と称して土地を区分し、6坪×6坪で1里と称する。その施行開始時期は、班田制の施行と連携するものと考え、西暦645年の大化改新のころとする説があるが、未だよくわかっていない。 土地に残る条里制の痕跡を単に条里、または条里地割と呼ぶことがある。また条里に沿う水路などを条里溝ということもある。【広辞苑】 日本古代の耕地の区画法。おおむね郡ごとに、耕地を6町(約654メートル)間隔で縦横に区切り、6町間隔の列を条、6町平方の一区画を里と呼び、1里はさらに1町間隔で縦横に区切って合計36の坪とし、何国何郡何条何里何坪と呼ぶことで地点の指示を明確にし、かつ耕地の形をととのえた。【フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』】から抜粋 条里制は、日本において、古代から中世後期にかけて行われた土地区画(管理)制度である。ある範囲の土地を約109m間隔で直角に交わる平行線により正方形に区分するという特徴があり、現在も北海道と沖縄を除く日本各地に条里制の遺構が残っている。条里制の成立過程 従来、条里制は班田収授制に伴い施行されたものと見られてきた。律令制では民衆に支給する(班田収授する)農地の面積を一律に定めていたことから、整然とした条里区画は班田収授との強い関連が想定されていたのである。 しかし、考古学の研究成果によれば、条里制が全国的に広く展開し始めたのは古くても奈良時代中期であり、飛鳥時代又は奈良時代初期に開始したと見られる班田収授との関連が重視されなくなっている。 奈良時代中期に顕著に見られた現象は、墾田永年私財法の施行で盛んとなった富豪や有力寺社による農地開発(墾田)であった。このことから、条里制は富豪や有力寺社を中心とした民間部門による農地開発に伴って成立した、とする説が非常に有力である。 奈良時代前期に、班田収授に伴って条里制が布かれたのは、おそらく奈良盆地大阪平野など一部の地域に限られたのだろうと考えられている。 条里制の施行を示す文献は残存しておらず、地面に残るものだけが唯一の史料であることから、条里制の成立を解明するには、まだ多くの障壁が存している。条里遺構の見つけ方 条里遺構を見つけるには、いくつかの方法がある。 まず一般的なのが地図を用いる方法である。 例えば、「これは!」と思う土地の国土地理院発行2万5千分の1地図に約109mごとに線を引いた透過紙などを重ね合わせる方法。約109mごと引いた線に道路や水路・あぜ道などがある程度重なっていれば、条里遺構である蓋然性が高いと言える。 地図上で確認した後は、現地を歩いて確認したい。 現地の道路や水路を見て、完全な直線であれば最近できた地割りであると考えるべきだろう。微妙に曲がっていたり、今では全く意味のない道路や水路や空き地が認められれば条里遺構である可能性が非常に高まる。ほぼ条里遺構であると考えてもよいだろう。主な条里遺構 * 近畿地方   * 奈良盆地一帯   * 大阪平野一帯   * 兵庫県加古川下流域   * 近江平野南部(草津~彦根にかけて)   * 近江平野東部(米原~木之本にかけて) * 中国地方   * 岡山県旭川下流域   * 津山盆地   * 福山市北部付近   * 防府市付近   * 山口盆地一帯 * 四国地方   * 讃岐平野一帯   * 今治市付近・・・・・・国府があった所だから当然?   * 道後平野一帯・・・・作ったのは誰? 時期は? (その他は省略)

    May 26, 2006

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    「その時歴史は動いた『源義経 栄光と悲劇の旅路』」批判(3)

    屋島合戦に勝った義経の気持ち 屋島合戦について平家物語吾妻鏡河野氏関係の史書とを付き合わせた結果、前者が黙して語らぬ部分を後者が矛盾無く補い、屋島合戦の全体像が見えた気がしている。子供の頃、源平盛衰記屋島合戦を読んだ時、たった150騎でどうやって勝ったのか不思議でならなかったのを今でも覚えている。その疑問を漸く解き明かしてすっきりした気分になった。 だが、ふと嵐に襲われなかったらどうなっていたかと考えた時。義経の苦い気持ちに思い至った。作戦がすんでのところで破綻する危機を切り抜けて勝利を得たが、もし作戦が順調に進んだら、それこそ完全勝利だったのではないか。それを逃がし、義経にとっては悔いの残る勝利だったのではなかったか。 予定通り2月21日に源氏・河野・熊野の全軍が屋島で合流していたら、恐らくは屋島を陸海から完全に包囲したであろう。田内勢は分断されたまま故、屋島は極めて手薄である。従って平家方は戦っても勝ち目は無く、海にも源氏方の兵船がひしめいて逃れることも出来ず、義経天皇も三種の神器も取り戻し、完全勝利を収めたであろう。実際には嵐のため予定が狂い、勝つには勝ったが平家を海に逃がしてしまった。それ故義経にしてみれば、会心の勝利にはほど遠く、大いに悔いの残る勝利では無かったかと推察する。 嵐のお陰で平家はなお生き延び、最終決戦の場が残されることになったが、これは滅び行く平家への天の哀れみだったかも知れない。かくして源平の無敗のエース義経と知盛の最初にして最後の決戦が、壇の浦で行われることとなった。■河野通信源範頼に共通する役割 屋島合戦においても壇の浦の合戦でも河野通信の華々しい活躍は伝えられていない。それにも拘わらず戦後河野通信の貢献は高く評価されたことは先に述べた通りである。通信の果たした役割は、屋島合戦に際して、源氏が勝つ状況を作り出したことにあったと考えるのが至当と思う。壇の浦合戦の最後の場面で阿波水軍田口氏の寝返りが勝敗を左右したが、寝返りの原因は、屋島義経の軍門に下った嫡子田内左衛門尉の身の上を田口氏が案じてのことと言われるが、これも通信の一連の作戦行動の結果である。このように考えると屋島・壇の浦合戦共に、通信は合戦で目立つ活躍は伝わっていないが、合戦の勝因を作ったことが大きな貢献であった。 屋島合戦勝利の陰の演出者が通信だったと考えると、源範頼の役割が似たものであったように映る。範頼は源氏の本隊を率いて各地を転戦し、これに対し平家方は常にエース知盛が相対し、範頼は苦戦の連続であった。そのため義経の華々しい活躍と比較すると範頼は如何にも見劣りし、凡将のように見られている。屋島合戦の時も知盛は範頼に相対していて屋島にいなかった。このように範頼が知盛を引き付け、その隙を義経が衝いたと見ると、範頼は源平の戦い全般にわたって、屋島合戦における通信の役割を演じたことになる。 範頼は一般に思われているような凡将だったのだろうか。本当は常に知盛が立ち向かわねばならぬ程の武将だったのではなかったか。そうだったとすると範頼は損な役割を演じ続けたことになる。範頼の実像はどうだったのか、検討し直す必要がありそうに思う。■義経に関する一般的な理解への疑問 義経と言う武将とその戦法について、義経は奇襲が得意、背後から攻める、と言う言葉をしばしば耳にする。これは一の谷合戦と屋島合戦の時の義経の戦法を評している言葉である。 一の谷合戦の逆落としは、平家側から見れば予想もしなかった所から攻められたので確かに奇襲であったろう。だが仔細に眺めれば、義経は相手方の一番の弱点、守備の盲点を見付け、そこから一番効果の大きい攻撃目標である敵本陣を衝いたのであって、非常に合理的な戦法と言うべきである。この攻撃を成功させるため、配下の全軍をもって平家の防衛線を攻撃して、敵の注意をそちらに釘付けにしている。 この作戦を背後を衝いたと見るのはどうも腑に落ちない。平家は義経軍が進撃して来る方に向かって防衛線を敷いている。それを背後から攻めたと見るのは理解に苦しむ。背後を衝いたとは防衛線の後ろから攻めたことを言う。この場合、海から攻めたなら、平家は背後から攻められたことになる。 屋島合戦における義経の攻撃を奇襲とか背後から攻めたと見るのは、より理解し難い。義経は阿波に上陸してから小さな戦闘を行っている。その義経の動きが屋島に伝わらなかったとするなら、平家の情報連絡能力の弱さに呆れる。これを奇襲と感じるのは、敵状把握能力の欠如と言うほかはない。更に、これを背後からの攻撃と見るのは、正面とは海側とする通念でもあるのだろうか。屋島の防衛線は陸側に対しても敷かれていた筈である。それを何故背後を衝いたと見るのか理解出来ない。 屋島合戦における平家軍の戦い方は誠に不様である。もし知盛が屋島にいたら、兵力で遥かに劣る義経は勝てなかったかも知れない。尤も義経は知盛がいない平家軍の脆さまで計算し、知盛不在の時期を選んだとも考えられる。知盛不在が義経勝利の一つの要因であったとするなら、その状況を作り出したのは範頼であることに、もっと注目する必要が有るように思う。

    August 31, 2005

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    「その時歴史は動いた『源義経 栄光と悲劇の旅路』」批判(2)

    ■「その時歴史は動いた『源義経 栄光と悲劇の旅路』」批判-その4 番組では義経が壇の浦合戦に際して平家方の武将に働きかけ、河野水軍、熊野水軍、田口水軍を寝返らせたとしていた。これは歴史に関して無知であり、平家物語吾妻鏡も見ていないことを自白する間違いである。 河野氏は平家勢力の真っ只中で、頼朝の旗揚げに時を置かず反平家の旗を掲げ、幾多の困難に遭いながら義経が来るまで支え切ったことは、歴史書を見れば直ぐ判ることである。それを壇の浦合戦の時に平家から寝返ったとは、どこから出て来る戯言か理解に苦しむ。 熊野水軍にしても同様で、河野氏と同日に熊野水軍屋島にはせ参じている。これも壇の浦合戦の時に寝返ったのではない。阿波の田口氏は確かに壇の浦合戦の際に寝返り、そのため平家の作戦が源氏方に筒抜けになってしまった。いずれも平家物語吾妻鏡に記されていることである。 戦後、田口氏は源氏勝利に貢献したにも拘わらず、旧主を裏切ったとして処刑されている。一方河野氏は功績を高く評価され、西国武士で河野氏のみ重く用いられ、守護に準じる立場を認められた。河野氏の処遇は田口氏の処遇とは対極の位置にある。両者の差は何か。NHKはこの点についても認識を新たにすることが必要である。■「その時歴史は動いた『源義経 栄光と悲劇の旅路』」批判-その5 番組では屋島合戦についても重要なな事実を無視ないしは見逃している。平家物語吾妻鏡に記されていることを抜き出して見よう。(平は平家物語、吾は吾妻鏡)元歴2年2月18日 義経荒れる海を渡り、阿波に上陸(平・吾)          義経平家五千のうち田内勢三千が河野氏討伐のため遠征中であることを知る(平)      19日 義経屋島を攻撃(吾)      20日 義経屋島を攻撃(平)      21日 平家讃岐國志度道場に篭る(平・吾)          熊野別当湛増二百余艘、源氏に加はる(平・吾)          河野四郎通信、一千余騎の軍兵を率いて源氏に加はる(平)          河野四郎道信、粧三十艘之兵舩、參加(吾)          田内左衛門降る(平・吾)      22日 梶原景時以下源氏勢屋島到着(平・吾) この記述から義経屋島を攻めた時、平家方は田内(でんない)左衛門則良以下三千が河野通信討伐のため不在で、屋島は極めて手薄であり、田内勢は遂に合戦に間に合わなかったこと、義経は手薄な屋島を攻めたこと、河野・熊野両軍とも同日に参陣していること、などが判る。これを仔細に検討すると、重要な問題が浮かんで来る。番組で何故この記述に目を向けなかったのか理解し難い。そもそもこの記述だけからも、河野・熊野両軍は壇の浦合戦の時に平家方から寝返ったのでないことは明白である。NHKはこの点をどう説明するのか。 更に上記の記述から幾つかの疑問が生じる。河野・熊野両軍とも屋島までの所要日数を考えると、義経の阿波上陸前に領国を出発していることになる。これは何故か。両軍とも単独で平家を攻める積りでやって来たのか。また同じ日に到着したのは偶然か。田内勢も同日に屋島に帰着しているが、これも偶然か。以下これらを検討して見よう。■「その時歴史は動いた『源義経 栄光と悲劇の旅路』」批判-その6 先ず河野通信から見てみよう。通信は何のために屋島に行ったのか。平家に味方するためでないことは明らかである。義経が阿波に上陸したのを知って、味方するために馳せ参じたのか。阿波から伊予、伊予から屋島への所要日数を考えれば、通信は義経の阿波上陸を知る前に出発したことになり、これも有り得ない。では単独で屋島の平家と戦う積りだったのか。通信にそれほどの力はないので、これも否である。一方熊野別当湛増にも同じことが言える。 義経の阿波上陸を知らず、単独で平家と戦う力のない両者が、同じ日に到着したのは何故か。それは義経・通信・湛増の間で練り上げた約束だったと考えるしかないであろう。つまり、源氏・河野水軍・熊野水軍の三者が21日に屋島で合流する。これが義経の作戦だったのではなかろうか。 ところが運悪く直前に台風に襲われ、源氏の舟が多数損傷し、約束の日に間に合わない事態となった。河野・熊野水軍は既に出発しているはず故、手を拱いていては源氏が約束を違えたことになり、作戦全体が崩壊する。その緊急事態を打開するため、義経は行ける者だけで急行し、21日に屋島で合流しようとしたのではなかろうか。平家物語などが伝えるように、僅か150騎で荒れる海を強行突破して阿波に上陸したのは、このような事情によると考えられる。 では僅か150騎で勝算はあったのか。ここで注目されるのは、田内左衛門則良率いる三千が河野氏討伐に向かい、屋島が手薄だったと言う記述である。平家物語では、義経は上陸後屋島の兵力を尋ねたところ、田内勢三千が河野氏討伐に遠征し、屋島に残るのは凡そ二千、そのうち千ほどはあちこちに分散配置され、屋島には千もいるかどうかと言う答えを得たことを記している。この記述は吾妻鏡にはない。 この記述は本当か。義経は事前に屋島が手薄なのを知っていたのではないか。平家は天皇以下守らねばならない大切な人々を抱えている。戦闘になった場合これは大変な重荷で、その警護に多くの将兵を割かねばならない。その結果屋島に千ほどの兵力があっても、防衛口の一つ一つの兵力は少なく、実際の戦闘場面での兵力は互角となる。義経は平家方兵力の実態を知っていればこそ、僅か150騎でも行きさえすれば何とでもなると渡海を強行したのではなかったか。平家物語が記すように、敵状を知らずに飛び出したのなら、それは蛮勇に過ぎない。一の谷合戦でも綿密な作戦で平家本陣を一気に壊滅させた名将義経なればこそ、敵方兵力の状況を知るが故に採り得た、臨機応変の決断であったと考えるのが至当であろう。(続く)■「その時歴史は動いた『源義経 栄光と悲劇の旅路』」批判-その7 この時期に平家方は何故屋島を手薄にしてまで、河野通信を討伐しなければならなかったのか。屋島が手薄という義経に取って願っても無い状況が、タイミングよく生まれたのは偶然だったのだろうか。 平家物語は通信がめ召しても来なかったから討伐軍を派遣したと記している。四国の武士達で屋島に行かなかったのは河野氏だけではない。それなのに何故河野氏だけを、しかも平家物語によると、屋島の総兵力の6割もの大軍を動員しているが、何故そこまでして討たねばならなかったのか。これには余程の事情があった筈である。 河野氏の史書「水里玄義」や「予陽河野家譜」などに田内勢との合戦が記されているので、それらを参照すると、平家を烏帽子親とする平家の御家人高市氏を通信が攻め、高市氏の鴛小山城(現伊予市)を陥とし、屋島から発向してきた田内勢を比志城(現大洲城)に迎え撃ち、5日間の激戦の末に撃退したと言う。なお、比志城の合戦の前に通信の伯父福良新三郎通豊が途中で田内勢迎え討って戦死している。この記述は通信が高市氏を攻めたので、田内勢が救援に来て、それと通信が戦ったかのように見える。ところが高市氏を攻めたのが1月16日、通豊の討死が22日、比志城の戦いが25日から5日間と記されている。これから勘定すると、田内勢は鴛小山城が攻められる前に既に出発していたことになり、河野氏を討伐を決意させた何かが、これ以前に起きていたはずである。 当時高市氏は国府(今の今治市)の近くの高市郷と伊予市と、所領を二箇所持っていた。これ以降は全くの推測であるが、通信は高市郷を先に攻めたのではなかろうか。高市氏は平家の御家人であるので見捨てるわけに行かず、更に通信に国府一帯を抑えられては芸予諸島も河野水軍に支配される惧れもある。この事態は平家にとっては脅威であり、放置するわけに行かない。そこで脅威の元凶である河野通信の討伐を決意したのではなかろうか。 河野氏側から考えると、高市氏を攻め国府一帯を抑えようとすれば当然平家が通信を討とうとすることは予想できる筈であり、現に田内勢三千が発向して来た。先に述べたように河野氏が単独で平家と戦う力は無いにも拘わらず、このような危険を冒すにはそれなりの狙いと収拾策が無ければならない。それは義経と示し合わせた陽動作戦であり、うまく平家軍が出て来たらその隙に義経屋島を攻めると言う作戦だった可能性が浮かんで来る。 このように考えると屋島が手薄だったのは偶然ではなく、義経が仕組んだ作戦に平家方がまんまと引っ掛かったことになる。そして義経が僅かな兵力で荒れる海を強行渡海したのは、折角うまく運んでいた作戦が、仕上げの段階で嵐により台無しになるのを救うための非常手段であったことになる。■「その時歴史は動いた『源義経 栄光と悲劇の旅路』」批判-その8 平家物語吾妻鏡も伊予における合戦について何も記していないが、田内左衛門尉が屋島への帰還に際し、討ち取った首を先に送り、首実検をしたとの記述があるので、伊予において相当な合戦があったことは事実と見て間違いない。 この記述で疑問に思うのは、首実権が2月19日で、義経の攻撃が始まった日であるが、平家方は義経が迫っているのをまだ気が付いていないのか、田内勢の帰還を急ぐよう指令した形跡が窺えないことである。結局田内勢は合戦に間に合わず、21日に戻りはしたものの屋島は既に陥落した後で、義経の命を受けた伊勢三郎の口車に騙されて降伏してしまった。平家方の状況把握力と情報収集力の弱さをここでも感じる。 このように見て行くと、河野通信は何らかの陽動作戦で平家軍を屋島から引き出し、義経屋島攻撃に際してその平家軍を最後まで屋島から分断しておく役割を果たしたと言える。つまり、義経が勝てる状況を作り出したのは通信であり、義経勝利の陰の演出者が通信であった。戦後河野氏が功績を高く評価され、西国武士の中でただ一人守護に準じる地位を与えられたのは、屋島合戦における貢献によるものではなかったか。■「その時歴史は動いた『源義経 栄光と悲劇の旅路』」批判-その9 以上述べたように河野氏は壇の浦合戦の時寝返ったのではなく、最初から旗色鮮明に反平氏で戦い、源氏の勝利に大きく貢献した。先に紹介した屋島合戦に関する平家物語吾妻鏡の記述に気が付かないのか無視したのか知らないが、天下のNHKが教養番組である「その時歴史は動いた」の中で、史実と全く違うことを平気で語る無神経さに憤りを感じる。その責任は重い。宮尾登美子氏も歴史を見る目を持っていないと断ぜざるを得ない。 吉川英治氏は「新平家物語」の中で、通信から田内勢が出て来たとの連絡を受け、でかしたと誉めそやしたと書いていると聞く。平家物語吾妻鏡の記述から肝腎なポイントにきちんと注目している証拠であり、流石と言うべきである。 述べたいことはまだあるが、屋島合戦に関する私見はここで一先ず終わりとする。

    August 31, 2005

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    「その時歴史は動いた『源義経 栄光と悲劇の旅路』」批判(1)

     以下は先に拙Blog 「imajouの独り言」に12回にわたって掲載したものである。内容は伊豫および河野通信に関係するものなので、一括整理して当Blog 「伊豫漫遊」に転載することとした。--------------------------------------------------------------------■「その時歴史は動いた『源義経 栄光と悲劇の旅路』」批判-その1 昨夜NHKのその時歴史は動いた「義経」の再放送を観たが、その内容の出鱈目さに呆れるより怒りを覚えた。歴史を余りにも知らず、史実を無視した一方的かつ浅薄な解釈をしゃぁしゃぁと放映するのは、どういう神経なのか理解に苦しむ。これでは受信料不払いが増えても仕方ないだろう。問題点は下記の通り。 1.当時の地勢を無視している。 2.当時の地名を判っていない。 3.河野氏が最初から旗色鮮明に反平家であったことを無視。 4.屋島合戦の際に、平家の主力が不在であったことを無視。 5.壇の浦合戦に際して、義経の誘いで河野氏熊野水軍も源氏に寝返ったと嘘を述べている。3.以降は平家物語吾妻鏡を見れば書いてあること。1.については常識。2.の地名については最近の研究を知らないと判らないかも知れないが、インターネットを検索すれば直ぐ見付かる。(兵庫歴史研究会のサイト参照)■「その時歴史は動いた『源義経 栄光と悲劇の旅路』」批判-その2 番組では平家が須磨「一の谷」に本陣?を構え、それを義経の本隊が西から攻めたと取れる図を見せていた。これが当時の地勢を如何に無視しているかを見てみよう。 昔須磨「一の谷」の西は、山から海に落ち込んでいて、海岸線は通れず、そのため当時の街道はもっと東で海岸線を離れ、内陸部に向かっていた。北側も山が海近くまで迫っていて平地は狭い。須磨「一の谷」の辺りは言うならどん詰まりの地勢だった。従ってそのような場所に本陣を構えるはずはないし、そのようなものを築く余地もない。平家がここを守っていたかどうかも疑問である。居たとしても哨戒線くらいのものであろう。 これを源氏の立場から見ると、一の谷を西から攻めるには山岳地帯を踏破し、急坂ないしは崖をそれこそ逆落とししなければならない。駆け下りたとしても態勢が整わぬうちに逆襲されたら、兵力を展開できずに狭い所でひしめき合って、攻めることも逃げることも出来ず壊滅しただろうと思われる。義経本隊は矢張り街道筋を中心とし、その近辺の山々に展開しながら平家軍に攻撃を仕掛けたと考える。 番組では義経の逆落としが須磨「一の谷」ではおかしいとまでは気が付いたようで、「鵯越の逆落とし」としたまでは良かったのだが、一の谷は本隊が攻めたと須磨「一の谷」に拘ったのが誤り。もう一歩突っ込めば正解に迫ることが出来ただけに、惜しかった。しかし、平家本陣が須磨「一の谷」にあったならば、義経の狙いを説明するのは不可能である。キーになるのは「一の谷」の場所である。■「その時歴史は動いた『源義経 栄光と悲劇の旅路』」批判-その3 「一の谷」はどこだったのか。これについては「兵庫歴史研究会」のサイトで詳しく述べている。(「一の谷合戦」だけを見るならこちら。) 詳細は上記サイトに譲るとして、源平合戦のころには、須磨に一の谷と言う地名はなく、鵯越の下の谷が一の谷であったと言う。平家ゆかりの福原はその南に当る。これなら「一の谷の逆落とし」の意図が無理無く理解できる。義経は奇襲攻撃で平家本陣の壊滅を狙ったのであろう。 そもそも奇襲攻撃を行うには3つの条件を満たすことが必要と聞く。1.そこを潰せば全軍が崩壊する要の場所であること。2.奇襲を掛けるまで絶対に隠密行動が可能なこと。3.成功の確率が高いこと。 「一の谷」が鵯越の下の谷であり、その直ぐ先が平家本陣であるなら、上記3条件を完全に満たし、結果は源氏の大勝利であった。平家は知盛以下、大手・搦め手が幾ら頑張っても、本陣が壊滅してはどうにもならない。 ここで注目すべきは義経の情報収集とそれに基づく作戦立案、及び作戦遂行に欠かせぬ事前の準備である。神戸市街地の北に広がる山岳地帯は、当時鷲尾党が抑えていた。その山岳地帯を抜けて鵯越に達したと言うことは、事前に鷲尾党を味方に引き入れていたことを意味する。このように見ると源氏の勝利は義経の情報戦の勝利であったと言えよう。その意味で義経は近代戦に通じる武将であったと感嘆するほかない。このような武将は義経以外には信長しかいない。 NHKの番組では本稿で述べた点に関する考察は皆無である。見識を疑う。

    August 31, 2005

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    能島村上氏の本拠伝承のコウガ屋敷跡か?

    『伝承のコウガ屋敷実在か 村上水軍跡地から大量の瓦』(愛媛新聞2004年8月22日(月) 「中世に活躍した能島村上水軍の本拠地と伝えられている、今治市宮窪町の屋敷跡を村上水軍博物館(同市宮窪町)の学芸員らが初めて発掘。瓦類や陶器などが見つかった。調査の結果、瓦の色などから十六世紀後半から十七世紀前半の遺物と見られ、学芸員らは「村上水軍に関係する屋敷の可能性が高くなったと離している。」(以上記事の引用) 記事では村上水軍の本拠と表現しているが、これは能島村上氏の本拠と言うべきであろう。 能島村上氏は能島と対岸の大島に拠点を持っていた。本拠地については大島にコウガ屋敷と呼ばれる地域があり、そこに能島村上氏の屋敷があったという伝承がある。2004年2~3月、前記博物館の中川和学芸員らが発掘。縦1m、横2m、深さ1mの僅かな区域から、鬼瓦や丸瓦、軒平瓦、平瓦など大量の瓦類と、備前焼の擂鉢の底や、陶器の皿など数百点にのぼる大量の遺物が見付かった。 コウガ屋敷遺跡周辺には中世に遡れる地名が分布し、能島村上氏の山城跡とされる遺跡がある。 出土した遺物のうち約25点を同博物館「発掘速報展示」コーナーで公開している。

    August 23, 2005

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    永納山城跡を国史跡指定する旨官報告示

     永納山城跡が国史跡に指定され、7月14日付けで官報告示された。2002年の湯築城跡に次いで10件目。また7世紀の遺跡である久米官衙遺跡群も約116平方メートルが追加指定された。

    July 20, 2005

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    江戸時代に描かれた道後付近の古地図 その2

     この古図には、湯築城西側の水路が道後村絵図と同じに描かれている。 【伊豫の今昔 2005.03.01付けの記事を移転】

    July 8, 2005

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    江戸時代に描かれた道後付近の古地図 その1

     この図は温泉郡古図の一部(図の右が北)で、「道後村絵図(天明六年)に関係する部分のみを切り出した。【伊豫の今昔 2005.03.01の記事を移転】

    July 8, 2005

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    天明六年の温泉郡道後村絵図

    天明六年の温泉郡道後村絵図 第30回特別企画展「伊予の湯」(道後温泉本館建設百周年記念)P.46に収録  編集:松山市立子規記念博物館  発行:松山市立子規記念博物館友の会  発行日:平成六年十一月一日 当時の水路が明瞭に描かれていて、昔の水路や道路を探る貴重な手掛かりとなる。 現在の水路と道は、この絵図と本質的な違いは無い。この状態は湯築城を拡張した時に出来上がったと推測される。 【伊豫の今昔 2005.02.25付けの記事を移転】

    July 8, 2005

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    松山大学編「写真は語る 百年前の捕虜とマツヤマ」

     写真は松山大学編「マツヤマの記憶」(成文社発行)。 この本を纏める上で中心となったのは宮脇昇先生と思う。宮脇先生は集まった古い写真一枚一枚について、場所を実地に確認すると言う大変な作業をなさった。その何枚かについてお手伝い出来たのは誠に光栄の至りで、懐かしい思い出である。本のカバーの写真もその一枚。 【伊豫の今昔 2005.02.27付けの記事を移転】

    July 7, 2005

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    「写真は語る 百年前の捕虜とマツヤマ」写真展

     初日に行き損なったので、2月27日に女房と一緒に見学。百年前の写真と同じ場所の現状とを並べて展示。一つ一つ場所を特定するのは大変な作業だったであろう。宮脇先生のご努力の賜物。展示された写真の一枚、湯築城の丘の西麓で捕虜が休憩している写真は、場所特定のお手伝いをしたものであるが、それの説明に自分の名が出ている。恐縮。 写真は松山市銀天街案内所「おいでんか」で開かれた写真展の様子。 【伊豫の今昔 2005.02.27付けの記事を移転】

    July 7, 2005

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  •      河後森城跡で堀切検出

     

    今朝(2004/04/26)の愛媛新聞によると、松野町教育委員会は25日、国指定史跡河後森城跡

     

     

     今朝(2004/04/26)の愛媛新聞によると、松野町教育委員会は25日、国指定史跡河後森城跡で、城門を置き通路として使用されたと思われる城内最大の堀切などを検出したとする、2004年度の調査結果を発表したと報じた。この堀切は全国的にも珍しく、大手道のような性格を持っていたのではないかと、見られている由。 【伊豫の今昔 2005.04.26付けの記事を移転】

    July 6, 2005

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    永納山城跡国史跡に

     国の文化審議会が5月20日に、古代朝鮮式山城「永納山城跡」を国史跡に指定するよう答申した。今秋の官報告示で正式に指定される見込み。 【伊豫の今昔 2005.05.28付けの記事を移転】

    July 6, 2005

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    湯築城の立地(1)

     湯築城は以上概観したように、南北朝の戦乱期に道後平野における北朝方の軍事拠点として築かれ、戦乱が治まった後には河野氏の本拠となり、更に戦国期に入り拡張・強化された。このように湯築城の歴史は三つの段階からなり、前後250年間にわたって存続し、第二期・第三期は伊予の守護河野氏の本城として機能した。湯築城が時代の変遷に伴ってその機能を対応させて、長きにわたって伊予の中心としての役割を果たし得たのは、何よりも立地条件に恵まれたことによると考えられる。その立地条件をを考察して行くに当り、説明の便宜のため三つの段階を第一期、第二期、第三期と呼ぶことにする。

    May 4, 2005

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    湯築城の歴史(4)

    湯築城の拡張--防御力強化 戦国期に入り、弾正少弼通直により湯築城の外堀と外堀土塁が設けられ、湯築城は二重の堀を巡らし、内部に居住区を取り込んだ平山城に拡張され、城の防御力が強化された。この時、前述の湯築城の近くにあった一町四方の施設を、居住区に取り込んだと推測される。その根拠は、城外の施設で検出された出土遺物はこの時期までのものに限られ、これ以後の遺物が全く出土していないことによる。 湯築城の拡張時期は、川岡勉氏の文献史料の研究から推定された年代と、発掘調査から明らかにされた外堀築造時期とが一致したことから、ほぼ確定したと言ってよい。即ち、国分寺文書と仙遊寺文書によれば、1535年(天文4年)に温付堀(ゆづきぼり)の普請が行われたと考えられる。この拡張により湯築城は居住区をも内部に取り込んだ、二重堀(注※)を巡らす平山城となった。これらは信長による安土城から始まるとされているが、湯築城の拡張は安土城築城より40年ほども早く、平山城、総構え構造の先駆をなすものと言えよう。 なお、「温付堀」の読み方は、「温泉郡」を「ゆのごおり」と読むこと、昔の文書では「湯築城」を「湯月城」「井付城」などと字がまちまちであることなどから、川岡勉氏は「温付堀」を「ゆづきぼり」と読んだのではないかと推測し、現在ではほぼその見解で固まった。(注※)当時の周辺河川の状況を併せ考えると、実質的には三重堀と言えそうな姿が浮かんで来る。この件については別に述べる。

    April 4, 2005

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    湯築城の歴史(3)

    湯築城の役割--河野氏の本拠(居城+守護所) では湯築城が河野氏の本拠となったのはいつ頃であろうか。それを示す文書はないが、応永年間になると湯築城における河野氏当主の元服記事が出だすので、この頃(1400年前後)から湯築城が河野氏の本拠となったと推測されている。 守護の性格・役割は中世前期と後期ではかなり異なる。中世前期即ち鎌倉期の守護は幕府支配からの自立性が低かったのに対し、後期の室町期になると守護権力は幕府支配から自立性を高める。従って守護所が府中の地に置かれねばならぬ必然性は薄れる。伊豫の場合、外に開かれた府中の地(現在の今治市)よりも道後の方が安全性が高いことに加えて、湯築城は広大な道後平野を押さえる位置にある点で、政治支配の中心として相応しい。 河野氏が本拠を風早郷から道後の湯築城に移したのは、上記のような守護の性格の変化とともに、河野氏自身が在地領主から守護へと変化したことに対応するものであろう。 湯築城を本拠としたとしても、居館及び守護所が城内にあったかどうかは、現時点では不明と言うしかない。先年の電車道拡張前の行政発掘で、湯築城の西およそ200mの所に「コ」の字状の堀が発見されている。この堀は一辺が一町(約109m)の方形の堀の一部と推測されており、これが湯築城拡張(後述)までの河野氏の居館或いは守護所であった可能性が指摘されている。

    April 4, 2005

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    湯築城の歴史(2)

    湯築城の役割--初期は軍事拠点 (2005年03月27日改訂) 南北朝動乱時、道後平野は南朝方の勢力が強い所であった。その南朝方勢力に楔を打ち込むため、北朝方の誰かが、道後平野進出の橋頭堡として湯築城を築いたと思われる。築城時の規模は不明であるが、中段から本壇への登り口で発見された「堀切」から南の範囲が、湯築城の最初の規模であったと筆者は推測する。その後、後述するように本拠を移す1400年頃までの間に、現在の内堀や内堀土塁、更には必要な建物を造ったのではなかろうか。 湯築城は築城後安泰とは行かず、何回も争奪戦を繰り返している。貞治年間(1362-1368)、伊予支配を狙う細川氏(河野氏と同じ北朝方)が度々侵攻し、河野氏との間で戦闘を繰り返している。1364(貞治3年/正平19年)、河野通朝は細川勢に攻められて、府中南方の世田山城で戦死する。 この後、在来説では遺児通堯は細川氏に湯築城を奪い取られ、恵良城に引篭る(『予章記』上蔵院本)。翌4年に1365(貞治4年/正平20年)には、通堯は湯築城を攻め(『予陽河野家譜』)、細川天竺入道を討ち取るなどの戦果を挙げ、大空城に攻撃を掛けているが、細川頼之の大軍に攻められ、高縄城(注*)・恵良城を経て九州に逃れたとされていた。 近年この在来説に対して川岡勉愛媛大学教授から異論が提出されている(注**)。即ち、『予章記』上蔵院本より古い流布本には、通堯は恵良城で元服した後湯築城を攻めたとしか記されておらず、上蔵院本の湯築城を奪い取られたと強調する記述は、ここが河野氏の本城であるとの認識に基づく後世の追記と見られ、本来の『予章記』からはむしろ恵良城の重要性が窺える。この時の湯築城は、守護細川氏が道後平野を支配する軍事拠点として確保していたと見られるとの指摘である。 この件は築城者は誰かと言う問題と共に、湯築城の歴史を語る上で重要なポイントである。筆者は他の問題と併せ考えて、川岡説が妥当と判断している。 以上のように重大な疑義があるとしても、このように度々争奪を繰り返した事実は、当時湯築城が道後平野を抑える軍事拠点として、重要な位置にあったことを窺わせる。しかしそれが直ちに河野氏の本城となったことを意味するものではない。通盛が死去した貞治元年頃、通盛が住んでいた河野郷土居を「上殿」、通朝が居た府中の「郷ノ毘沙丸」を「下殿」と号していた(『予章記』上蔵院本)と記されている。これらから見て、湯築城は道後平野における軍事的な拠点であっても、政治拠点とは見做し難く、やはり河野氏にとって伝統的な本貫地の河野郷が政治拠点であり、府中の地がそれに次ぐ拠点であった。(注*)文献に高縄城が出てくるが、高縄山に城があった形跡は全く見つかっていない。従って高縄城がどこを指すのか不明である。そのため高縄山近辺の雄甲山城、雌甲山城等の幾つかの城の総称ではないかとの説もある。恒常的な城は無かったが、戦いになった時、高縄山に柵などを設けて守ったことはないのだろうか。それを高縄城と称したとは考えられないだろうか。(注**)『湯築城と伊予の中世』pp.58-59(川岡勉・島津豊幸編 創風社出版)

    March 24, 2005

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    湯築城の歴史(1)

    湯築城の築城  湯築城は250年間にわたり伊予の守護河野氏の軍事的拠点であると同時に、或る時期以後は守護館であり、且つ、守護の政庁を兼ねた。  湯築城は、後世に成立した幾つかの文書に建武年間に築かれたと記載されているが、河野氏家譜や軍記類には築城についての記述が無いので、正確な時期は不明と言うほかない。湯築城の記述が初めて登場するのは 忽那一族軍忠次第であって、1342(康永1年/興国3年)に南朝方の湯築城責に忽那氏が加わっていたことが記されている。土居氏系図( 注*)にも土居氏が湯築城責に加わっていることが記されている。従って湯築城はこの年以前に築かれていることは確かであるが、誰と戦ったのか記されていない。湯築城に篭っていたのは北朝方がであることは間違いないが、それが河野氏であったのか或いは細川氏であったのか、今後の研究を待つしかない。(注*)美川村土居家に伝わる系図。

    March 24, 2005

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    湯築城の謎(2003/05/05に更新した記事)

    湯築城の謎を思いつくままに記してみる。湯築城はいつ造られたか?南北朝動乱のさなかに何故湯築城を築くことが出来たか?河野通盛は何故湯築城を自分の領土(石井郷)外に築いたか?何故それが可能だったか?河野通盛は何故湯築城の地に城を築いたのか?別の場所ではいけなかったのか?湯築城は高縄山系を後背地としているが、後背地の役割は?通盛は高縄山系を含むかっての支配圏を回復していたのか?湯築城を築いた事実は河野郷を含む高縄山系を回復していたと見られるが、その時期は?また、どうやって回復したのか?土居氏の系図に縦淵城と戦った記述がないのは何故か?河野郷を回復した後、石井郷はどうしたのか?放棄したのか?通盛はどこから出陣したのか?湯築城築城時の地勢はどのようだったのか?当時石手川はどこを流れていたのか?本当に伊佐爾波の岡と切り離したか?切り離す理由は何?内堀の外側に土塁を築いたのは何故か?内堀土塁と外堀土塁が、北側入り口付近で合流しているのは何を物語るのか?その合流点から時計廻りに遮蔽土塁の辺りまでの土塁は、築城時の土塁ではなかったか?大手門北側の土塁だけが非常に堅牢に築かれたのは何故か?この土塁はいつ築かれたのか?その内側に古代の寺院があったのか?そこが非常に固く突き固められているのは何故か?河野通直は何故湯築城を拡張したか?拡張せねばならない必然的理由があったのか?拡張当時の地勢はどのようだったか?石手川はどこを流れていたか?外堀は河川と繋がっていたか?堀の水はどこから供給されていたか?湯築城の水源はどこか?何故井戸が少ないのか?中段に何があったのか?中段だけ出土する遺物の種類が他の区域と異なるのは何故か?中段は聖なる場所だったのか?築城前は中段に伊佐爾波神社があったのか?大手門正面の東西の道はいつ造られたか?街道はどこを通っていたのか?湯築城築城の前後で街道の位置は変わったか?大手門の前まで昔は石手寺の寺領だったと言うのは本当か?当時の海岸線はどこか?河野水軍の実態は?茶釜が多数出土するのは何故か?港町の博多と堺でごく僅か出土したタイの陶器が数多く出土するのは何故か?河野氏が海外交易をしていたのか?見近島の出土品が湯築城と共通性があるのは何故か?家臣団住居跡の出土品の質が、建物の大きさと比して不釣り合いに高級なのは何故か?ここに住んでいた武士は、地位はまだ低いが身分のある者と推測されるが、それはどういう人か?長宗我部氏の紋の入った瓦が大量に纏めて捨てられていたのは何故か?--------------------------------------------------------------------湯築城に関する疑問を思い付くまま並べてみました。まだまだ疑問は沢山あるでしょう。これらの疑問を解き明かして始めて湯築城の真の姿が見えて来ます。これらの疑問が学術的に解明されるまで、ただ漫然と待つだけでなく、素人は素人なりに中世伊予のイメージを描いて見たいと考えます。多くの方の参加とご支援をお願いします。--------------------------------------------------------------------(注)今では解明されたもの、推測できたこともあり、逆に新たに生じた疑問もあります。それらについては順次触れて行く積りです。

    March 24, 2005

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灯台下に光を (4)(伊豫漫遊書庫から転載)

February 28, 2007
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カテゴリ:地域興し
 東京で生まれ育った者には、名所・旧跡は遠くにあるものと感じられ、それに憧れる気持ちがある。勿論東京にも比較的新しい時代のものはあるのだが、古い時代のものは少なく、奈良や京都に比ぶべくもない。就職して神戸に行った時のこと、ここが生田か、これが須磨か、ここが鵯越かと、歴史の真っ只中に飛び込んだ感じで、凄く興奮したのを覚えている。箱木千年家に至っては、平安京が出来た直後からの存在で、東京では想像も出来ないものである。
 神戸ですら東京人にとっては歴史の宝庫と感じる町。まして奈良や京都に行くと、右を見ても左を見ても歴史のオンパレードである。それらを始めて見たとき、まことに羨ましく、自分が生まれ育った東京に古い歴史を物語るものが無いのを悲しく思い、劣等感すら覚えた。アメリカ人が古いものに憧れる気持ちと通じるのかも知れない。
 歴史の古さは何故か人々に誇りを持たせる。三内丸山遺跡が見つかって、青森の人はそれまで持っていた劣等感が消え、誇りをもつようになったと読んだことがある。歴史の古さはどうもそう言う不思議な力を持つらしい。
 翻って松山は、伊豫はどうなのか。神話の冒頭で語られる古い歴史を持つ。遺跡でも吉野ヶ里を上回るかも知れない弥生時代の集落跡があり、卑弥呼の時代の外交権を持つ国ではなかったかと推測される樽味遺跡があり、古代・中世・近世から現代に至る歴史の宝庫である。それなのに松山人や伊豫人は何故誇りを持たないのか。松山の見所はと尋ねられたなら、何故それらを堂々と語らないのか。歴史の力が伊豫では無力なのか。
 湯築城にしても当時としては最先端の構成の城である。近世城郭の特徴を、安土城に先立って作り上げた先人の独創力を誇りに思って当然ではないのか。灯台下暗しの典型例と笑われぬよう、自分が住む地域を根本から認識し直すべきであろう。【哲の日記から転載】

灯台下に光を当てる活動(伊豫漫遊書庫から転載)

March 1, 2007
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カテゴリ:地域興し
 灯台下と言うか自分の足下に光を当てる活動は色々あるが、湯築城ウォークもその一つ。自分らが住む地域の再発見。少人数でいい。各地域ごとに小グループが、自分らの町を、村を見つめ直し、それを報告し、語り合う。
 湯築城ウォークには3人集まった。せめて5人集まればスタートしたい。湯築城はまだ判らないことの方が多い。素人が歴史推理を楽しむ余地が沢山ある。既に判っていることを基に、その先を推理して楽しむのが目的。論拠無しの空想ではない。
 例えば、城内で井戸が見つからない。ある時期まで井戸が2つ存在したことが判っているが、次の段階で埋められてしまっている。井戸を埋めてしまって水をどこから得ていたのかと言う疑問が沸く。これを発掘調査等で判っていることに基づいて考えてみれば、様々に推理出来るはず。
 もう一つ例を上げるなら、道後には古代の条里制の跡がくっきりと残っている。松山に条里制が布かれたのは比較的遅いらしいので、鎌倉時代かも知れないが、これほど明瞭にその跡が残るのも珍しいだろう。その条里制が湯築城とどのように関係しているのか、これも大きな楽しいテーマである。この問題を仔細に考察すると、湯築城が造られた時の地勢が浮かんで来るし、先の井戸の件とも繋がって来る。
 この2つとも勿論現時点では正解は存在しない。従って各自が推理しても、それが合っているかどうかは不明である。しかし、これらを考えることにより、色々な事柄が様々に関係し合っていることが自然と理解でき、更にそれらが今現在に繋がっていることに驚嘆するだろう。
 灯台下に光を当てるとは、このように自分らが住む地域を、自分らでしっかりと見つめ直すことだと思う。決して他から与えられるものではない。やって見ようと名乗りを上げる人が居たら嬉しい。やって見ませんか。【哲の日記から転載】

海賊の真実 (2)(伊豫漫遊書庫から転載)

March 2, 2007
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 海賊と聞くとパイレーツ(pirate)、海の悪者と捉えるのが普通であろう。だが中世の海賊はパイレーツと同義語ではなかった。明治期に海賊の訳語としてpirateを当てたのが一般化し、中世の海賊もパイレーツと誤解させる原因となったらしい。

 そもそも昔から世界各地に陸の民と海の民が存在していた。海の民とは海を生活の場とする人々で、海洋民族と言われるフェニキアなどその典型例である。日本では海賊と呼ばれる三島村上氏はその代表的存在である。海の民の関心はあくまで海に向き、彼等の拠点は沿岸部や島にあり、決して内陸深く支配を広げようとしない。中世伊豫の豪族であり、守護にまでなった河野氏にもその傾向を感じるが、考え過ぎだろうか。河野氏の戦争を見ると、領土を拡張するために自分から仕掛けた戦いが見当たらない。当時の武将にあっては非常に特異なことと感じる。

 それは兎も角として、海賊たちの生業は何であったか。今の言葉で言うなら海上保安庁であり、水先案内人であり、水運業者であった。そして時に水軍として戦う。

 海賊が海上保安庁と言うと奇異に感じるかも知れないが、瀬戸内の安全を誰かが確保しないと、瀬戸内航路は止まってしまう。例えば三島村上氏がパイレーツであり、所謂海賊行為をしたらどうなるかを想像して見れば判るであろう。歴史上、瀬戸内航路が完全に止まったことがある。藤原純友の乱の時である。この時、京では餓死者が出たと伝わっている。だが戦国期にも京・大阪でそのような事態になった話は無い。誰が瀬戸内の治安を維持したのか。戦国期に名を馳せた三島村上氏など海の民である。戦国時代に世が乱れ、海にもパイレーツが増えたが、彼等がパイレーツを取り締まり、海の治安を維持した。

 芸予諸島の海域は海が狭いため潮流が激しく、海の難所である。現在の動力を持つ船舶でも航行は難しく、操船を誤って島に衝突することがある。そこで下関から神戸・大阪に向かう船には水先案内人が乗船して誘導する。水先案内料は、だいぶ前のことだが、50万円と聞いた。動力を備えた船ですら通るのが難しい難所を、まして昔の動力を持たない舟が簡単に通れる筈はない。それを無事に航行させたのは、潮流を熟知した海賊と呼ばれる海の民であった。

 彼等が通行料を徴収したことを以って海賊行為と言う人が居るが、それはおかしい。当時は陸にも関所があり、通過するだけで通行料を取っていた時代である。海で水先案内と安全を保証する行為に対価を求めるのは、単なる通過料ではなく、実質を伴う行為に対する対価であり、当然の商行為である。対価が積荷の10%で高すぎると見るのも、現代の感覚による判断に過ぎない。

 水運業については説明するまでもないであろう。海で暮らし、海を自分の庭の如く駆け巡る彼等が、物資の水上輸送を請け負うのは、余りにも当たり前の行動である。

 最後に水軍機能であるが、彼等の様々な機能の一側面に過ぎない。陸で自衛手段として武力を持ったのと同じで、パイレーツから自らを守る自衛の武力を持つに至ったのであろう。海のこととて陸とは違った発展を遂げたのも当たり前のことである。

 海賊とは海の民のことで、政権側から見て自分らの思う通りにならないので、賊と呼んだのではないかと推測する。海の民が、海を知らず海に力の無い者の言うことを聞く筈はない。面白いことに、堂々と「海賊殿」と記した彼等宛ての書状が残っている。これを見ると「海賊」と呼ばれることに誇りを持っていたのではないかと推測する。

 以上述べたのが海賊の真の姿である。この海の民に注目し、光を当てたのが網野教授であり、海の民を海民と呼んだ。海民は生活の場が海であることのほかに、流通の民と言う側面を持つ。流通の民はまた移動の民でもある。陸の流通の民、移動の民は悪党と呼ばれ、楠木正成はその代表的存在である。

 南北朝の争乱は、或る意味で流通の民、移動の民と、定住の民との争いと言う性格を有すると指摘した人も居る。しかし、海の民と陸の民の争い、移動の民と定住の民との争いは、世界中で後者の勝利となり、海の民移動の民は姿を消した。そのため実像が判り難くなったのであろう。

 このように海賊とは本来パイレーツと同義ではなかったが、今では海賊=パイレーツとなってしまったので、パイレーツと区別するため、本来の海賊を「海賊衆」と呼ぶようになった。

 最後に一さんの名言をご紹介して終わりとする。
  『海賊でなく「海族」の字を当てるべきだ。』

【哲の日記から転載】

見近島に橋脚が2本あるのは何故? (5)(伊豫漫遊書庫から転載)

March 3, 2007
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 先ず地図をご覧頂きたい。しまなみ海道伯方島と大島の間を、伯方橋大島大橋の2本の橋で結んでいる。次にこの写真をご覧頂けば、その2本の橋を支える橋脚が、見近島の伯方島側と大島側にそれぞれ1本設けられていることがお判りと思う。
 しまなみ海道で見近島のような小さな島に、橋脚を2本設けた例はほかには無い。見近島も当初計画では橋脚は1本であった。それが2本になった裏にには、文化財保護にまつわる隠れたエピソードがある。今日はそれを紹介する。

 公共工事を行なう際には、行政が事前に発掘調査を行なう。見近島においても橋脚建設予定箇所の調査を行なった。すると予想もしなかった遺物が大量に出土した。その中には3000点もの海外陶磁器が見つかった。この量は島の推定人口に比べて圧倒的に多いこと、また同種のものが固まって出たことを合わせ考えると、この島が流通の中継基地であったと推測された。
 見近島は上記地図で判る通り、能島に近く、能島村上氏の勢力圏内であることから、能島村上氏の中継基地だったと考えられ、この発見により彼等海賊衆が流通に携わっていたことを、始めて考古学的に確認できた。 

 このように貴重な遺跡であることから、愛媛県教育委員会は見近島の遺跡を残さねばならぬと判断し、本四架橋公団と掛け合った。遺跡を残すには設計をやり直さねばならず、公団側はなかなか承知しなかった。しかし最後に遺跡の重要性を理解し、橋脚を遺跡を挟んで両側に各1本設けることに変更し、遺跡を残すことが出来た。
 以上は見近島の調査を担当し、本四架橋公団との交渉に当たった方から直接伺った話で、そのご努力と、遺跡の保存のため設計変更に踏み切った公団の英断に、心から敬意を表したい。

 なお、見近島における発見は、後日湯築城跡の発掘調査結果に繋がって行く。それについてはまた後日紹介したい。【哲の日記から転載】

同笵瓦の出土が意味すること (4)(伊豫漫遊書庫から転載)

February 15, 2008
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 湯築城から岡豊城・中村城の瓦と同笵の瓦が出土したことから言えることは、同一職人或いは同一職人グループが作った瓦が、三つの城にあったと言うだけで、それ以上は何も語っていない。どこの職人がどこの土を使ってどこの窯で焼いたのか、などは今現在不明である。これらを明らかにするには、データの収集蓄積と分析を待たねばならない。

 ところが、岡豊城・中村城と同じ紋様の瓦が出たと言うだけで、長曾我部氏の力が湯築城まで及んでいた証拠と見る向きもある。このような短絡的思考は論理を無視した暴論と言わざるを得ない。高知歴史民俗資料館の宅間館長の「土佐に瓦を焼く窯は無い。、泉州で焼かれたものとはっきり判っている瓦も出土している。問題の瓦も土佐以外で焼かれたもので、同笵瓦があちこち出土するのは当然である。湯築城・岡豊城・中村城から同笵瓦が出たことを以って、長曾我部氏が湯築城を抑えた証拠とすることは出来ない。」という論理明快な発言が正論と言うべきである。歴史を見るのに論理を欠いてはならず、史料や資料の恣意的な解釈は厳に慎まなければならぬ。【imajouの独り言から転載】