湯築城出土瓦と墨書土器雑感 (4)(伊豫漫遊書庫から転載)

February 9, 2007
楽天プロフィール XML

 湯築城出土の軒平瓦が岡豊城や中村城の瓦と同じ紋様を持つ。ただし、版木や窯は同じではない。瓦の大きさと厚さも異なる。今判っていることはここまでである。これだけで土佐と関係ありと断じるのは無理。同じ紋様の瓦はこの三つの城以外に出土しないのだろうか。
 シンポジウムの資料の中に、岡山でも同紋の瓦が出ていることを示すと解される図がある。これの説明を聞き漏らしたのか、当日説明を聞いた覚えがないので確かめる必要がある。もし湯築城・岡豊城・中村城以外からも同紋の瓦が出土しているなら、そちらとの関係をきちんと分析して、初めて湯築城の瓦がどこと関係しているのかが判明する。更に、どこの土か分析する必要がある。現時点で湯築城の出土瓦が土佐と関係ありと結論付けるのは時期尚早であると思う。
 次に疑問なのはこの瓦がいつ、どのよな建物に使われたのか、そして、いつ、どうして捨てられたかである。長曽我部氏の四国制覇は豊臣軍の侵攻で後一歩のところで挫折したと思われる。一歩譲って湯築城も陥としたとしても、その後、岡豊城と同紋の瓦を使った建物を造る時間的な余裕は無かったと思われる。では誰がいつこの瓦を使った建物を造ったのか。今は不明である。
 捨てられた時期は、発見された場所が東門近くの排水溝であり、その排水溝は湯築城が廃城となるまで使われていた筈であることから、湯築城が廃城になった時、またはその後と考えるべきである。
 出土したのは軒平瓦と軒丸瓦で、平瓦は少なかったらしい。これは紋の入った瓦は捨てられ、紋の付いていない平瓦は再利用されたことを窺わせる。

 今一つ、土州様の文字が記されている墨書土器も現時点では謎と言うべきだろう。墨書土器で「様」を付けたのは異例と聞いたような気がする。それは兎も角として、「土州様」とは土佐の当主であろう。それは時期から考えて長曽我部氏なら元親であろうが、元親が湯築城に来たことがあるとは考え難い。来ていないとすると、土州様とは誰なのか、何故土州様と記したのか、現時点では説明不能と思われる。土佐の領主で湯築城に来た人がいるだろうか。居たとしてそれは誰か。文献史学の方から追求すべきことであろう。

 このように疑問は殆ど解明されていない現時点では、岡豊城と同じ紋様を持つ瓦の出土と、土州様と書かれた土器があったことの二つだけで、土佐との関係を推測するのは不可能であり、これを以って長曽我部氏が湯築城を陥とした証拠とみるのも早計であり、更なる研究の進展に期待するしかない。
注:一部追加(2007/02/10)。訂正(2007/02/11)