土州様と書かれた墨書土器についての考察 (6)(伊豫漫遊書庫から転載)

February 11, 2007
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1.「土州様」と書かれた墨書土器はいつごろのものか。
 出土した場所は湯築城拡張部であることから、湯築城拡張時(1535年)以後のものと考えられる。
【注】出土場所は南西の隅と聞いたと記憶するが、出土場所と出土した層を確認する要あり。

2.土州様とは誰を指しているのか。
 土州様とは土佐の領主(支配者)であろうから、湯築城拡張以降の土佐の支配者の変遷を整理してみる。(訂正:土州様とは土佐守を指す言葉で、土佐の支配者ではない。従って、土佐の支配者を探るのは意味が無いことだが、下記の年表は消さずに置く。)

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    年       事跡                       土佐領主(支配者)

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 1535年(天文4年) 湯築城拡張 (弾正少弼通直)

-----------------------------------------------------(この時期は一条氏)                           
 1568年(永禄11年) 鳥坂山合戦 長曽我部氏は一条氏に随って兵を出している。

 1569年(永禄12年) 長曽我部氏と一条氏は境を接するに至る。                 
-------------------------(長曽我部氏が土佐の領主となるのはこれより後。)

 1573年(天正元年) 室町幕府滅亡

 1574年(天正2年) 長曽我部元親一条兼定を豊後に追放。

 1575年(天正 3年) 長曽我部元親、土佐平定。------------(これ以降は元親)

 1582年(天正10年) 本能寺の変

 1584年(天正12年) 元親、讃岐平定。(6月)

 1585年(天正13年) 元親、秀吉に敗れ、土佐一国を安堵さる。
             河野通直(牛福)、小早川隆景に降伏。

 1587年(天正16年) 福島正則が伊豫を拝領。湯築城は廃城となる。
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 上記年表から見る限り、元親が土佐を実質的に支配したのは、早く見ても1569年であり、その前は一条氏が上位にある。長曽我部氏が名実共に土佐の支配者となったのは、1574年か1575年である。この間、一条氏か長曽我部氏が湯築城を訪れる機会があったであろうか。一条氏は鳥坂山合戦の前から宇和の西園寺氏と戦いを繰り返し、長曽我部氏も土佐の実権を握った後、度々伊豫に侵攻し、河野氏西園寺氏と戦っている。この状況下で河野氏時代に湯築城を訪れる機会があったとは考えられない。
 可能性が残るのは、河野氏滅亡後小早川隆景が伊豫を拝領していた2年間ではなかろうか。この2年間に元親が湯築城に来たことは無いだろうか。

3.土州様とは土佐守のことか?
 ここまで書いて気が付いたのだが、土州様とは土佐守の官位を持つ人を指しているのかも知れない。そうであるなら土州様を一条氏や長宗我部氏でなくても、この時期の土佐守の官位を持つ人物を検討すべきである。歴代土佐守を記した資料は無いだろうか。