湯築城で出土した瓦について (2)(伊豫漫遊書庫から転載)

February 15, 2007
楽天プロフィール XML

 ここに記す湯築城で出土した瓦の考察は、「談話室ゆづき」に投稿したものであるが、後々、岡豊城と同文の瓦及び土州様と書かれた墨書土器の考察を纏める際に必要と思われるので、一部加筆・修正してここに収録しておく。

#5406 湯築城で出土した瓦  今城  02/15 18:25

 湯築城で出土した瓦について思う所を述べて見ます。

1.瓦の紋様
 出土した瓦の紋様は、岡豊城及び中村城の瓦と同じですが、版木は異なります。この紋様はほかには無いのかどうか、この点を確認する必要があります。つまり、上記三つの城以外に存在しない場合と、ほかにも存在する場合とでは、見方が全く異なります。

2.瓦の製作時期
 上記三つの瓦の製作時期を明確にすることが必要です。湯築城出土の瓦は、城内のどこで使われていたのか不明です。拡張区域で使われたものなら、年代は50年程の間に限定されますが、そうでないなら製作時期は、可能性として200年或いはそれ以上に広がります。もし非常に古いものであるなら、上記三者のうち一番古い可能性も有り得ます。分析で製作時期を調べる必要があります。

3.廃棄された時期
 これはほぼ特定出来そうです。出土した場所が大手門近くの排水溝であり、この排水溝は湯築城が廃城になるまで使われていた筈ですので、そこに捨てられていたからには、廃城になった時かそれより後となります。考えられるのは加藤嘉明松山城を築いた時で、この可能性が強いのではないでしょうか。つまり、使える物は持って行き、不要なものを捨てたと言うことです。平瓦の出土が少ないのは、再利用された可能性が高いことを暗示します。もう一つの可能性は、福島正則の時代で、湯築城が廃城になったときです。

4.製作者
 紋様が同じと言うことは、同一工人または同一工人グループの手になるものと考えられます。しかし、それがどこの工人であるか、現時点では不明です。

5.製作場所
 湯築城の瓦と岡豊城の瓦は硬さが違いますので、製作場所、竈は異なります。土を分析すればどこの土であるか判るはずと思います。その結果によって製作場所も手懸りが得られるのではないでしょうか。

 以上述べた事柄は、私が詳細を知らないだけかも知れませんが、この瓦を考える上で抑えて置く必要があるでしょう。