得能氏のご子孫との交信

【談話室ゆづきから転載】

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#3375 得能氏と道後散策のお勧めについて教えて下さい。  得能通仁

はじめまして。
「得能」の姓を持ちながら先祖のことはあまり知りません。愛媛から大阪に出て来て3代ぐらいで、実家には虫に喰われた家系図蒲生氏郷の書状が伝わるぐらいです。
母も80になり、この夏に孫たちと道後の温泉、大三島に連れて行って欲しいと言われ、さてさて、2泊でどのようなプランを立てればいいのかと困ってしまいました。
子供たちに家系をどう説明していいのかもわからず、検索をしたらここにたどり着きました。
なにとぞ、ご教示のほどよろしくお願い致します。

#3376 得能氏こそ河野氏の長子の家系也  遊行笑人

初めまして、母上様の先祖を忍ぶ御姿に思いを寄せる感也。湯築城の良くお越し下さいました。
是非、松山道後、先祖由来の地、及び先祖崇拝の由縁の今治市大三島(最近今治市の合併の由)の大山祗神社へ起こし下さい!(ご予定が決まれば、お知れせください)
ご案内は、伊予の方々が改めてお話を送って下されると思いますが、私も出きる限り御助力を挿せて頂きます。此れから宜しくお付き合い下さい。(大山祗神社崇拝の一人也)

#3377 愛媛旅行  美濃林

昨年、旅行しましたが新尾道まで新幹線で行きタクシーで平山郁夫美術館、村上水軍城、大山祇神社、名前は忘れましたが展望台を経て道後に泊まりました。タクシー代が高くつきますので別の方法も考慮された方がよいかもしれません。帰りはストレートに特急で帰りました。ただご高齢の方が同行されるということですから、この行程も多少きついかもしれません。得能氏については、marugenさまがお詳しいのではと思います。ご参考まで。

#3379 得能氏と蒲生氏  marugen

得能氏と蒲生氏

得能氏と蒲生氏の墓が、松山市のど真ん中・大林寺に並んで在ります。
得能様の家に、蒲生氏郷の書状が在るのと何やら似ております。
大林寺は、松山城#・松平の菩提寺ですが、前身は蒲生氏の見樹院。
その前が、河野氏の法性寺と伝えられています。
現在の御住職は関心無いらしく、御存知ないのが残念)
蒲生氏の墓も、得能氏の墓も忘れ去られたことなど気にせず、々と立っております。
得能氏、蒲生氏、松平氏と歴代の主役が目に着けた場所。 よほどの、縁があったと思いますが謎です。
大林寺横には、松山市唯一の大社・アノミ神社が在り、 祭神はオオヤマヅミの神です。
これも、大社でありながらさびれております。
得能氏と蒲生氏の連携が、 得能様のお宅に見られたことに驚きを感じました。
何かいわれは、伝わっておりますか?

#3380 寶巌寺と湯築城  今城

道後に寶巌寺(ほうごんじ)と言う寺があります。その支院の一つで時宗の開祖一遍上人が生まれましたので、同寺は時宗三大聖地の一つとなっています。一遍上人は源平の争いの時、義経を助けて功績のあった河野通信の孫で、元寇で活躍した河野通有の従兄弟に当ります。
時代が下がり鎌倉幕府が倒れた時、得能氏は朝廷方で戦って功績を上げ、大きな恩賞を貰い最盛期を迎えました。そこで得能通綱はすっかり荒れていた寶巌寺を再建しました。この後南北朝の争乱に突入します。
なお、得能氏は土居氏と共に河野支族の筆頭で、鎌倉幕府が倒れた時、幕府方に立ったため一時没落した河野宗家に代わって、得能氏が河野一族の惣領家の立場にあったようです。南北朝争乱時に入り、両者の運命は逆転し、河野宗家は北朝方で勢いを盛り返し、得能氏・土居氏共に当主が戦死する悲運に見舞われます。南北朝合一がなった後は得能・土居両氏とも河野宗家の下に復帰し、伊豫の守護河野氏を支えました。
現在国史跡となっている湯築城は河野宗家の本城で、寶巌寺から歩いて10分位の所にあります。この城は南北朝争乱が始まった頃、北朝方の城として築かれました。河野氏松山市の北部(旧北条市)河野郷が本貫地ですが、1400年前後に本拠を湯築城に移したと見られています。その後秀吉に降伏するまで、湯築城は伊豫の守護河野氏の本城として機能しました。
得能氏の本拠は今治市の南方の得能郷です。
 
以上大雑把に述べましたが、お知りになりたいことがあれば遠慮なくお尋ね下さい。

#3381 みなさん、ありがとうございます。  得能通仁

兄や母からは、「得能」は伊予の河野家からの出とは聞いておりました。古い写真も残っていますが、どこやらさっぱりです。
蒲生家とは氏郷に子が無く、家系が途絶えるために、我家から養子縁組の話が進んでいた様子。その途中で若くして氏郷は没したように聞いております。
蒲生氏の墓があるとはまったく知りませんでした。
あと、西郷の弟さんに嫁に出したとかも聞きましたが真意はわかりません。そうそう、お墓に小便かけたのは誰だったのかなーまさか一遍さんやろか。先祖供養は心にするもので、墓石ではないと小便かけたと聞いております。
大林寺に寶巌寺に湯築城大山祗神社ですね、是非行ってみたいです。
得能郷って初めて聞きました。
我が家の家紋も、愛媛では多く見受けられます。何かまだ見ぬ故郷みたいで楽しみです。
家系図に菊の家紋があったのが不思議でした。
南北朝の時に新田義貞と共に御子を守って福井まで落ち延びたようです。そこで御子を守って全滅し、後に菊の家紋を頂いて、もったいないので返上したらしいと聞いております。
道後へは、子供たちの夏休みに計画します。車で行こうと思います。実家の母の都合を伺ってから決めようと思っています。その節には、よろしくお願いします。

#3382 得能・蒲生の縁は、なかなかに興味深い  marugen
得能様、興味あるお話が伝えられていますね。
松山へ転封されたのは、蒲生氏郷の孫、忠知ですが、嫡子なく、お蒲生家断絶。
松平氏が入ってきます。
松山には、得能氏との養子縁組の話は伝わっていませんが、大林寺の、二つの墓を眺めていますと、そういう話もありえたかもと、思われます。
蒲生忠知の墓と、伝・得能通純の墓.
得能氏の居城は、味酒山城(現・松山城)であったろうと思われますので、松山城に登られれば、中世のころの記憶が呼び覚まされるやもしれません。
蒲生忠知が築いた、二の丸もきれいに整備されております。
得能・蒲生の縁は、なかなかに興味深い。
謎が解けてきそうです。