得能通綱に関する記事

【談話室ゆづきから転載】

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#4548 得能通綱に関する記事  今城  05/12 00:00
『#4517 寶巌寺の本堂建立の時期』に始まるスレッドも長くなり過ぎましたので、新しいスレッドを立てます。
随分前になりますが、河野通村に関する話の中で得能通綱のことも話題に上りました。その時私自身も美川村土居家に伝わる系図の中の、通綱に関する記事を紹介していました。短い記事ですので、全文を再掲します。

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#3028 得能氏に関する記載  今城  2004/12/09
得能氏の記述もご参考までに記します。
通綱は、「元弘年中吉野院御一統之時被補惣領号河野任備後守於越前金崎城
討死家人卅余人同死」とあり、通村は単に彌太郎と記すのみです。 以上。

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これは遊行笑人さんが#4534にお書きになった
> 得能又太郎通綱元弘之頭吉野院御統一之時宮方に属し通信の旧領を賜り備後守に
> 任じられ、被補惣領、土居と改める。
に当たる記事だと思います。この記事の出典は何でしょうか。
両者を比較しますと、土居家系図では「元弘年中」と記されている部分が遊行笑人さんが紹介された記事では「元弘之頭」となっております。「元弘年中吉野院御一統之時」であるなら、その時期はほぼ特定できそうです。元弘年間とその後数年間の出来事を年表形式で記すと下記のようになります。

1333(元弘3年)       4月 足利尊氏、朝廷側に転じる。
              5月 尊氏に攻められ六波羅落ちる。探題仲時以下近江で自殺。
                 新田義貞、鎌倉を落とし、北条高時以下一門自殺。
                  鎌倉幕府滅亡、建武政権成立。
               6月 総ての土地所有権を綸旨で安堵する旨布告
               7月 この頃記録書を設置。北条氏与党以外の所領を一律に安堵。
1336(延元元年/建武3年) 12月 後醍醐天皇吉野へ移る。南北朝分立。
1337(延元2年/建武4年)  2月 金崎城落城
1338(延元3年/暦応元年)     顕家・義貞討ち死に
               8月 北朝尊氏を征夷大将軍とする。
1339(延元4年/暦応2年)  8月 後醍醐天皇歿。

これと突き合わせると、「元弘年中吉野院御一統之時」とは1333年(元弘3年)5月の建武政権成立であり、「被補惣領号河野任備後守」は6月か7月の所領安堵と処遇を伝えていると考えられます。
なお吉野院とは後醍醐天皇院号ですが、後醍醐天皇は在位のまま亡くなったのですから、院号は贈り名ではないでしょうか。もしそうであるなら、「後醍醐天皇」でなく「吉野院」と記した上記の記事は、後醍醐天皇歿後に書かれたことを示しており、その時期は通綱の死後少なくとも2年以上後となります。死者の重要な事跡をそんなに経ってから系図に書くものでしょうか。それとも後醍醐天皇は在位中から吉野院と呼ばれていたのでしょうか。この点になお若干疑問が残りますが、通綱の記事が「元弘年中」であるなら以上のように見て良いと思います。

#4549 通綱の身上調査のけん  遊行笑人  05/12 06:33
おはようございます!・・・今城殿、maru阿弥師、賑やかに大河ドラマが出来そうな長編物に成ってきました!さぞやご本人は元より、通信・通俊・通広・一遍さまもやきもき見ておられるものかと!。 通綱殿の記事の出典は、我家之系図高知県現在は高知市に為って居る大津村郡誌採用史料の家伝の書。並びに高知県大津天竺城落城と土佐之国越智族史料として採用されております)・・当然ながら、本系図は伊予の松山・景浦直孝先生(孝かな?少しくずしているので、号は雅挑かな)、今治市大濱片岡松太郎先生、三芳村野島精次郎翁、土佐大楠野中忠治先生の編纂)、史料中には、豫章記、山土井本豫章記、豫陽(湯にも見みえるが)河野家の譜、築山河野家の譜、河野家閲歴史、河野軍記、河野分限禄、海賊古法弁解外を一年間を費して、景浦先生のご指導の元で出来た史料也。
又、参考にした年表は昭和五年発行の大日本史講座別巻・滋賀貞著の国史綜合年表の記事からの抜粋です。・・・少なくとも戦国時代の頃(永正十六年・1519年)からは、疑う余地の無い家伝の大切にして参りました系図なれば、高知市の空襲にて消失した実家と、南海地震中村市の家屋の倒壊の被災の中、持ち出された物です。(なかなか之者の家伝の物と同じ原典です)
 
#4550 追記のこと  遊行笑人  05/12 09:38
今城殿、通村殿の記述は似たような文書で通俊殿の後に、通秀を得能冠者・後得能弥太夫云う。
其の子通純を得能又太郎・文永年中六波羅史部討代賜阿波富田庄と記す。
通村は得能弥次郎・イニ弥太郎とのみ。・・・其の後に件の通綱を先段の添え書き也。
 
#4551 美濃史の通綱  美濃林2  05/12 10:03
河野通有の子息通義(河野六郎左衛門刑部少輔)。
通有の孫
河野通治(河野備後守嫡流)舎弟通綱諸共、南朝仕。延元二年乙丑(1337)三月六日、越前国敦賀郡金ヶ崎之城於戦死。年四十五才。通治子息通郷(河野備前守
通綱(河野備中守)兄通治同時同所於討死。年四十。
と死亡年齢まで、mino阿弥様に紹介戴いた、東京大学史料編集所蔵の美濃国諸家系譜に記載されてます。
話は別ですが。一遍設立の時宗の、僧職は阿弥と言った様ですが、本当ですか。
 
#4553 三島大祝家譜の中の土居系図  遊行笑人  05/12 11:24
今城殿、少し長文には為りますが、三島文書の一節を書き込みます。本文訳するも得意分野なれど敢えて原文をご案内します。(ご存知であれば削除ください)
通増のこと、『元弘三年癸酉(みずのととり)二月後醍醐天皇平氏追討之綸旨、與一族得能又太郎通綱相議、擧兵於豫州、攻喜多郡根来山城抜之、當城者所楯籠宇都宮遠江守同美濃入道之代官等他也、(さて、この美濃入道之代官とは何方かな)同年閏二月二月十一日圍府中守護三河権(檻かも?本文は古い字体なれば)守貞宗館攻之、追落貞宗以下御家人等訖、同二十七日重テ喜多郡根来山城攻之、井門・高市・惣那・大祝・日吉・多田・三木・合田・二宮等ノ一族皆属于此、同三月十一日根来山城抜落、同十二日押寄星岡山ノ城追落、上野前司平時直以下朝敵人等訖同年二年乙亥(きのとい)二月十六日於與州処々與野木式部太輔貞政・河野四郎通任(今岡通任は我等先祖也)合戦、云々と記されております。