揖斐頼雄(伊予土岐氏)

【談話室ゆづきから転載】

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#5390 揖斐頼雄(伊予土岐氏)  mino阿弥  02/09 10:53
なかなかさんの記事は、通信の消息がよくわかり貴重な投稿であると思います。また、なかなか家の家伝の史料も大変価値のあるものではないかと思います。ところで「記録御用所本」の内容から気がついたのですが、伊予における土岐氏(揖斐頼雄・三代守護土岐頼康弟で子の康行は頼康の養子となり四代守護となる)は、単なる地頭としては想像以上に広範囲な所領を維持していたように思われます。伊予河野氏庶流が美濃へ移住するにあたり、伊予の所領と美濃土岐氏の所領を替地したのか、何らかの理由によって伊予の土岐揖斐氏が伊予の所領を拡大したように思われます。替地というのは、将軍家の意向がないとできないそうで不可能だそうですが、椿洞河野氏(伊予守河野通村)は二十七町歩所有し、1370年前後に美濃で後醍醐天皇の皇子無文元選禅師のもと了義寺以下四ヶ寺も建立し、これは現存しています。延文三年(1358)沙弥祐康(揖斐頼雄)荏原郷内浄瑠璃寺を修造し禅寺に改め月峰和尚に寄進する (大徳寺文書)など、また土岐方から河野通直(通堯)への書状(臼杵稲葉河野文書)もあり、想像以上に河野氏土岐氏はコミュニケーションがあったやに思われます。稲葉氏も発祥の地は土岐揖斐氏の揖斐川町です。伊予河野氏庶流の所領と引換えに美濃の揖斐氏の領地を交換したとか美濃への移住を保障したというようなことは、素人考えでしょうか?
 
#5391 要約ですが  なかなか  02/09 22:36
奥州河野氏については、皆さんが既にご存知の河野氏伝承の基礎を踏まえて、当家メモの長文を要約し投稿しました。ついては、省略しすぎのところもあるかと思いますが、概要をつかんでいただければ幸いです。
 
#5392 伊予の国・・土岐氏の縁は!  遊行笑人  02/10 09:21
mino阿弥氏、今治市の歴史を最近読み耽って居りますが・・・其の内に、市内本町に円浄寺と云う古寺在り。天正年中(1573年〜1692年)に野間郡紺原村(大西町・・ヒョットしたら市町村合併で変わってるかも?)に土岐九郎左衛門政経の発願で創建され慶長二年(1602年)に現地に移したと記す・・境内には土岐氏の墓在り。この寺は名僧学信ゆかりの寺だそうです。(戦国時代にも土岐氏の領地が野間郡地域に在ったのかと!)縁の深さを知る資料かと参考まで。
 
#5393 土岐政経  mino阿弥  02/10 10:28
ありがとうございます。
土岐氏は紺原西ノ山の山崎城に居館していた。政経は父祖のため紺原に円浄寺を建立し直誉上人を開山とした。円浄寺過去帳に「当寺大檀那円誉浄信居士、土岐九郎右衛門政経、文禄三午年三月六日没」政経の父頼政は毛利氏の播州上月城の尼子攻めより後に討死したと思われる。当時河野氏は、毛利氏と同盟関係にあり河野通直は配下の軍勢を率いて毛利とともに尼子攻めに参加したであろう。政経の討死は秀吉の第一次征韓役にあたる。慶長五年関ヶ原の戦功により藤堂高虎国府城主二十万石の城主となった。政経の子頼久は藤堂の家臣となった。慶長七年高虎は今治城を築き近辺の諸寺を寺町に移して今治北の固めとした。円浄寺は紺原から移築し土岐氏今治に移り鳥生に居住したと伝えられる。円浄寺には土岐氏の墓が十一基ある。うち二基は一石五輪塔である。
土岐政頼(九代守護)ー頼元ー頼政(浮穴郡徳川城主・天正六年九・二二討死)ー政経ー頼久(藤堂氏に仕う)・・・頼通
という資料が手元にあります。「美濃源氏フォーラム」の人達は、現地に行ったこともあるようです。
 
#5396 もう一件のこと?  遊行笑人  02/10 20:20
mino阿弥氏・・以前土佐之古城を調べていた際に・・確か『土岐城』なる山城を見た記憶が有りましよ!・・確か伊予の国境から越えた処・・土佐の越知町佐川町(今は市町村合併で変わってるかも)のHPの町史に載っていて記憶が甦ってきました!・・一度調べてみますね。