日本の墓制

【談話室ゆづきから転載】

                                                                                                                                    • -

#5434 本当かいな「日本の墓制」  今城  07/02/20 18:01
asahi.comに『「お墓」の誕生─死者祭祀の民俗誌 [著]岩田重則』と題する日本の墓制に関する本の紹介記事が載っていました。その記事は「日本人はいったいいつから遺骨、そしてそれを入れる「お墓」という空間に執着し始めたのだろうか。何気ないことかも知れないが、実はこの問いかけは日本史上の大問題でもある。」と言う書き出しに始まり、平安時代は埋葬場所すら関心が無く、中世でもなされなかった石塔建立が近世の寺檀制度で次第に民間へ浸透し、「先祖累代」と刻んだ墓石が成立するのは近世後期だったというのです。
ちょっと意外で俄かには信じられない気持ちです。これが本当なら中世武将達の墓はいつ作られたのか、墓碑は後世に立てられたのか、墓は本物なのだろうか、高野山には中世の人物の墓は存在しないのかなど、いくつもの疑問が浮かびます。この本を読む必要があるかも知れません。
その記事のURL:http://book.asahi.com/shinsho/TKY200702200223.html
 
#5435 大きなたくわん石の墓?  maru阿弥  07/02/20 18:39
一遍も親鸞も、死んだら散骨か魚のエサにしてくれと言われておりましたが弟子達がすることには、大目に見てやってくれと申されておりました。
えらい人は墓などいらないのでしようが、凡夫は墓が造りたくなるようです。
「先祖累代」という考え方も、諸行無常の仏教では無く、DNAを重んじる、儒教の影響が強いと申されます。
仏教が骨抜きになって葬式仏教になったのは、徳川幕府の功労と聞き及んでおりますが。沢庵和尚などは、大きなたくわん石みたいなのを、どんと置いているだけでありました。
 
#5436 通信の墓に墓碑はあったか?  今城  07/02/20 18:40
通信の墓に墓碑はあったのでしょうか。一遍上人聖絵に、通信の墓に詣でた絵があったと思うのですが、その絵に墓碑は描かれていたかどうか、どなたかお分かりになりませんか。
通信の墓は土を盛った土饅頭状ですが、印象ではかなり大きなもので、相当に敬意を払ったものだと思います。その墓に墓碑が無いのなら、中世初期にはまだ石碑を建てる習慣は無かったのかも知れないと想像しています。
墓碑を立てるようになったのはいつ頃からか、また謎が生まれました。善応寺の通盛の墓碑はいつ立てられたものか、史料は無いのでしょうか。
 
#5437 お墓の変遷  三宅川  07/02/20 22:57
一つの説としてご承知おきください。
岩田重則氏の著書はまだ存じ上げませんが、身分によってお墓の規模と有無が生じた古墳時代が次第に人口増加とともに薄葬令が発せられ、奈良時代には小さな古墳となり、その後無くなってしまいました。
平安時代に入ると、古墳の省略形の土饅頭いわゆる墳墓が主流となって、さらには火葬をして壺に入れ、一ヶ所に集めるようになったようです。
しかしそれもある程度身分のある人たちが主体で、庶民は特定の場所に葬るという習慣はなく、自然葬が主体だったようです。それは、当時の人口推定に対して、発見される墓地や人骨が少ないことからも推定されています。
その後はご承知のように、墳墓と墓標と参拝を分ける考え方、遺体埋葬場所(最期の場所)〜遥拝所(宝筐印塔・五輪塔=定期参拝)〜位牌(日常参拝)となって、時代が下って合理的な考え方として埋葬場所=墓標となったと考えられているようです。
河野家の墓碑があまり特定されないのも、埋葬場所と宝筐印塔(供養塔=遥拝所)の場所が違っているために、わかりづらく、後に埋葬場所に墓碑を建てたか、宝筐印塔や五輪塔のある場所を墓としたか、と考えられます。
因みに宝筐印塔は古墳が無くなった直後の平安時代からありますから、場所が同じくしていないだけで、碑を建てる習慣はあったように思います。但し、苗字のある者以上に限定されることになりますが…。
 
#5438 #5437 お墓の変遷  今城  07/02/21 00:36
三宅川さん、有難うございます。
asahi.comの紹介記事ではどうも納得し難い感じがありましたが、お陰ですっきり致しました。墓標が立っている場所が墓と言うのは現代の感覚で、昔は遺体埋葬場所(最期の場所)〜遥拝所(宝筐印塔・五輪塔=定期参拝)〜位牌(日常参拝)が別々であったとは、目から鱗でした。
河野通信の墓が土饅頭であるのは身分の高い人を埋葬した古い様式の墳墓であること、従がって墓標が無くても不思議では無いことも理解できました。河野氏歴代当主の墓標が立っている場所も、古い時代のものはそれが埋葬場所なのか遥拝所であるのか、一つ一つ吟味しなければなりませんね。
 
#5439 日本人の墳墓  美濃林2  07/02/21 13:28
金城様 事務局宛で送ります。よろしくお願いします。
庶民が墓に関心を持ち始めたのは、江戸檀家制度の中で庶民の生活が成り立ち、周囲と差別化を図ったからだと思います。それまでは土饅頭の上に玉石であったのではないでしょうか。
縄文期=当初狩猟遊牧の為、屈葬・伸展葬用の穴を掘って、遺体を生め、石器材料の石核などを入れ、土を盛り目印の石を置いたり、出雲・沖縄などは洞穴に横たえ、熊野などは小船を太陽に向かわせ黒潮に乗せた。貝塚に共に埋葬される所もある。 

  • 縄文期後期になると集団生活となり、墓地の必要が生まれ、部落内での地位によって、後継者が血統・財産・名誉によって、立派な墓を造り始めた。部落国家の祖先の地として祭った。
  • 弥生期=九州北部に部族国家が出来ると、膨大な副葬品を持つ王墓が出現、土壙墓、甕棺墓で葬られた。
  • 古墳期=円墓・方形墓が減り、近畿から地方へ前方後円墓が広がり、王位や権力継承の舞台となった。
  • 奈良期=物部守屋が破れ部族国家が、仏教を国家が取り入れ、薄墓令により古墳は消滅してい き、蘇我入鹿の大五輪塔に見るように、
  • 平安期=権力者の中に宝筐印塔・五輪塔が増えてきた。都市庶民は谷間などに野辺の送りとされ、後に小さい玉石で五輪塔が積まれた。
  • 江戸期=寺院人別帳が置かれ、一族や宗派で菩提寺を建て、先祖代々の墓を立て祭った。
  • 現 代=移動・無宗教の時代、どうなりますやら。

散骨だと言う息子をくどき、DNAを重んじ菩提寺の墓と移動地の参拝墓としました。