奥州河野氏について

【談話室ゆづきから転載】

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#5376 奥州河野氏について  なかなか  02/05 22:17

当家の者が昭和57年7月に奥州江刺の安楽寺に住する極楽寺大僧正・司東真雄さんの案内で、河野通信の聖塚を墓参しており、その当時の会話メモなどから奥州河野氏の動向がみえてきました。
一遍上人が弘安二年(1279年)、京都の因幡堂で教義していた当時、奥州から老齢の父河野通重に代わって次男の河野通次が六波羅探題へ出仕していた。
そこで通次は、いとこの一遍により入道し、宿阿弥陀仏順道の法名を授け、河野通信配流地の奥州路案内を申し出た。
通次の父の河野通重は河野通信の長男通俊の二男で、承久元年(1219年)に奥州稗貫郡葛岡村(岩手県花巻市石鳥谷町)の寺林城に地頭として配置されていた」(喫茶室にその当時写した通信聖塚の写真も送ります)
河野通信の聖塚
河野通信の聖塚 posted by (C)yudukijou
河野通信聖塚の所在は、昭和40年に北上市稲瀬の司東真雄住職により確認されました。この写真は昭和57年7月に撮影しました。
河野通信聖塚の説明書き
河野通信聖塚の説明書き posted by (C)yudukijou
これも昭和57年撮影です。
 
#5377 奥州河野氏について 2  なかなか  02/05 22:23

承久の変で通信は領地没収、奥州極楽寺別坊の上台坊に預けられ2年後の貞応二年6月19日68歳卒。
通重は承久の変に直接関係していなかったことから、そのまま葛岡村地頭として認められ、六波羅探題へ出仕する地位を継続した。
一遍らは信州の通政・通末の墓を弔い小田切で越年し、正月に奥州へ向かい、その年の秋に江刺郡へ入った。
弟子の順道(通次)ら20人の中には、健治三年高野山で弟子となった登米郡沼倉村の村上水軍系で村上朝成の次男朝光も随行していた。(一遍が高野山へ登ったとき、高野山で修行中の村上朝光が一遍上人の弟子となり二祖他阿真教の法名を授けた)
墓は北上川流域極楽寺山水越の林の中にひっそりと上円下方塚としてあったが、すでに訪れる人もなく、すすきや茨で荒れていた。一遍は時宗最高の法要といわれる「すすき念仏」で通信を供養した。
また、「一遍聖絵」は、一遍の通信墓参10年後に画家の円伊が一遍に同行した弟子の案内で塚を絵巻物として写生した。
通信が暮らした隠岐院(現在の安楽寺)から墓所(聖塚)への場面と塚を転経念仏している弟子達と山岸坊の上の俵岩山と極楽寺へ行く途中の稲瀬川ザラメキの岩場が画かれているが、これは、北上川越えしたことと極楽寺へ立寄ったことをそれとなく表現している。
通信の聖塚は長く所在が不明だったが、昭和40年司東真雄住職により確認され、昭和44年に岩手県指定史跡に指定された)
 
#5378 奥州河野氏について 3  なかなか  02/05 22:26

一遍らは通信を弔い極楽寺を参拝した後、通重の寺林城で越年した。
越年中、通重は入道し珠阿弥陀仏、長男の俊行は長阿弥陀、通重の妻は聞一房と法号を授けた。
その後、順道(通次)は家督を弟の通綱にゆずり、念仏の道場として二十町歩の地を寺領と定め光林寺を建築し、円阿弥陀仏、重阿弥陀、仏大善坊に鎮守社を、淨阿弥陀仏に十王堂を建てさせ、塔頭・中之寮・端寮を建てた。
こうして石鳥谷町光林寺は七百年以上前に建てられたが、今でも五基の古い石塔が現存し、このうちの一基、宝きょう印塔は通重の墓とされ、この種の塔では岩手県内最古である。
光林寺はこの地の政治の中心でもあったとみられ、浅野長政や南部利直の証文が今でも残る。
境内の杉やヒノキの中には、直径が2メートルを越える大木もあり、丘の下方に残る堀跡は、ここに寺林城があったことを物語る。
 
※ 資料
1 昭和57年7月に当家当主が河野通信墳墓を訪ねた当時のメモや写真 
2 大僧正 司東真雄先生著「岩手県時宗略史 一遍上人と代々遊行上人の軌跡」 
3 岩手日報(平成9年1月26日)いわて歴史探訪 石鳥谷町光林寺 一遍上人がかかわる県内最古、宝きょう印塔 (岩手県花巻市石鳥谷町光林寺
http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=39%2F28%2F7.345&lon=141%2F7%2F55.765&layer=1&ac=03205&mode=map&size=s&pointer=on&sc=5
 
#5379 先師の奥洲道奥の紀行情報は!  遊行笑人  02/05 23:09

なかなかさま、真に通信の生涯終焉の地・・奥洲江刺は伊予の河野氏の総帥の華々しい生涯を閉じるに相応しき土地柄の由縁之深さは、一遍上人ならずとも我が身をすぐさまにでも遊行に掻き立てられる想い也。果てなき経年の月日の古・・若き日に・・・先師(お父上)が自ら先祖を偲び足を運ばれた貴重な紀行日記のご披露の義・・・深謝の伝言お伝えください。恐惶謹言
 
#5383 奥州河野氏について 4  なかなか  02/06 19:15

通信の遺言も出てきました。
承久の変で、後鳥羽法皇西面の武士として仕え敗れた通信は、法皇隠岐島での流謫生活を思い、自分の謫地の極楽寺上台坊の庵を隠岐院(現在の安楽寺)と名づけ、法皇御持仏の観音像に礼拝し68歳で歿した。
流謫は罪人としてではなく伊豫国守護職の前歴で、鎌倉幕府の功績者として居所を移すことを流したとした。流される前すでに入道し「観光」と言っていたため歿したとき、極楽寺座王法号をさらに諡り「東禅寺殿観光西念」とした。
しかし、遺言によって石塔は建てなかった。
理由は父通清が平家方の西寂に討たれたが、通信は西寂を生け捕り、父の墓前で首をさしのべて報告したとき、西寂は父の墓へ小便をした。このことを恥かしめられたと感じてのことであったという。
墓は当時としては貴人墓として最高の上円下方塚で、上円部は石でふき四方に濠をめぐらしたりっぱなものであった。
注)昭和57年の当家メモと昭和58年に贈された岩手県時宗略史との相違箇所はいくつかありましたが、その場合は岩手県時宗略史を優先しました。
ただし、通信公の命日は疑問として残りました。(5月又は6月説?)
・司東真雄先生著『岩手県時宗略史 一遍上人と代々遊行上人の軌跡』には、「貞応二年(一二二三)六月十九日、六十八歳で歿した」と書かれている。
・ しかし、当時、聖塚にあった『河野通信墳墓 昭和45年3月 北上市教育委員会の説明碑』
(喫茶室投稿写真)には、「1223年(貞応二年)五月十九日六十八才で世を去った」と書かれていた。
・また、当家伝承の『予章記』にも「貞應二年五月十九日寿六十八に而逝去す」とありました。

このことについて、奥州の方の補足説明が今後、いただければ幸いです。
 
#5384 極楽時の司東さん、北条鹿島でのろし上げ  maru阿弥  02/07 17:59

このお墓を造らぬ話は、北条市でもよく語られましたが
代々の河野氏の墓さがしの時にまで、この話を持ち出された時は困りました。
松山の場合は、破壊されてわからなくなっています。

極楽時の司東さんが、10年ぐらい前に、北条鹿島でのろし上げをされました。
その時の写真を、喫茶室にあげておきます。
やぐらの一番上の方が、極楽時の司東さんです。
一遍さんの絵にそっくりな方で驚いた事を思い出しました。
極楽寺の司東さん
極楽寺の司東さん、やぐらの上で狼煙あげです。 posted by (C)yudukijou
 
#5386 そうですか  なかなか 02/07 21:32

そうですか、司東さんが、奥州から北条鹿島に来られたのですか。
10年前ですと、かなりご高齢だったと思います。
写真を拡大してみましたが、顔まではわかりませんでした。
しかし、のぼり旗の家紋と河野水軍はわかりました。
ありがとうございました。
 
#5387 極楽寺の司東住職のことは?  遊行笑人  02/08 08:28

なかなかさま、師匠殿・・・大僧正司東真雄師と狼煙台の写真の当人の関係は?・・同一人物なのですか?・・・それとも・・親子なのか?昭和40年は今から32年ほど前・・・櫓に立たれた時代が・・10年ほど前。・・・中を取り持つ昭和57・8年ごろだとしれば、今もご健在なのでしょうか?・・・擦れば是非お目に掛り、なかなかさまの父上様にも昔話(河野通信殿談義)を交わして貰いたいものですね!・・・縁の関係には驚きました。  
 
#5388 河野通信が桜となって、高縄山に遊ぶ  maru阿弥  02/08 12:23

極楽寺の司東さんは、御子息です。
お父上はもう亡くなられていたように記憶していますが。
その極楽寺ゆかりの桜、ベニヒガン桜が河野郷に植えられ
花を咲かせるようになりました。
バックの山は、河野氏のシンボル、高縄山です。
河野通信が桜となって、高縄山に遊んでいるようです。
写真は、喫茶室に上げておきます。
河野通信、桜となって
河野通信、桜となって posted by (C)yudukijou
極楽寺ゆかりの北上市の桜、ベニヒガン桜が高縄山をバックに咲いています。
まるで、河野通信が河野郷へ帰って来られような風情です。
 
#5389 やはり暖冬!  なかなか  02/08 22:29

お墓を造らぬ話は、当家伝承の『予章記』にもありました。
「北条の浜に着き、西寂をば高縄の城に曳上げさせ、通清の墓の前を三度曳廻して首を刎ねたり、西寂も知れ者にて其の墓に尿をしかけり、夫より當家には塚を築き立つ事不要〜」と云々
松山では、河野氏の墓が破壊されているようですが、江刺の通信の墳墓はよくもまあ残っていたものです。

それにしても、今年の暖冬でしょうか。ベニヒガン桜がもう咲き始めているようですね。
(当家の者が昭和60年に高縄山で撮影した高縄寺を喫茶室に上げておきます)
通信の高縄山 高縄寺山門です。
通信の高縄山 高縄寺山門です。 posted by (C)yudukijou
通信の高縄山2 高縄寺本堂
通信の高縄山2 高縄寺本堂 posted by (C)yudukijou