小川土佐守が湯築城を訪れた可能性 (7)(伊豫漫遊書庫から転載)

February 17, 2007
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 「土州様」とは誰かと言う件で、遊行笑人さんから「小川土佐守」なる人物が居るとの指摘があり、その人物に関して調べた結果を談話室ゆづきに投稿した。以下2本の破線の間はその投稿記事である。
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#5419 小川土佐守は可能性が無さそう  今城  02/17 19:59

 小川土佐守のことがウィキペディアに載っていました。

 ウィキペディアの小川祐忠の項に次のように記されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E7%A5%90%E5%BF%A0 参照)

小川 祐忠(おがわ すけただ) : 天文18年(1549年) - 慶長6年(1601年)
 戦国時代の武将。通称は左平次、孫一郎。官位は土佐守。左近太夫。正室は一柳直高娘。子に右馬允、小川祐滋(右馬允、光氏と同一人物か?)、小川良氏、千橘らがいる。大名とも日田代官とも言われる小川光氏は長男と言われる。

 慶長3年伊予今治7万石を与えられ、国府城を居城とした。

 1600(慶長5年)、関ヶ原の戦いでは当初、西軍に与していたが小早川秀秋の寝返りに呼応して東軍に寝返り、家臣小川甚助の郎党樫井正信が平塚為広を討ち取るなど武功を上げて東軍の勝利を決定づけ、佐和山城攻略戦にも参加した。しかし、通款を明らかにしなかったことを咎められ、戦後、改易された。

 この前後の伊豫の状況を年表形式で纏めると、次のようになります。

 1585(天正13年) 小早川隆景豊臣秀吉の命により伊予に侵攻。河野通直、湯築城を開いて降伏する(予陽河野家譜)。

 1587(天正15年) 福島正則が伊予を拝領し、湯築城は廃城となる(予陽河野家譜)。河野通直、伊予を離れて安芸の竹原で死去。

 1595(文禄4年) 加藤嘉明、正木(松前)城主として伊予に入部。

 1598(慶長3年)  小川祐忠、慶長3年伊予今治7万石を与えられ、国府城を居城とした。

 1600(慶長5年)  小川祐忠、関ヶ原の戦いでは当初、西軍に与していたが小早川秀秋の寝返りに呼応して東軍に寝返るも、戦後、改易された。

 1602(慶長7年) 加藤嘉明松山城の建設をはじめる。

 以上から見ますと、小川土佐守が伊豫に来たのは湯築城が廃城になった後ですので、湯築城を訪れる機会は無かったと考えられます。従がって小川土佐守は、出土した墨書土器の「土州様」では無いと結論づけて良いでしょう。一人消えました。
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 しかしよくよく考えると、小川土佐守が湯築城に来た可能性が全く無いわけではない。福島正則は湯築城を廃城としたが、建物が壊されたのは加藤嘉明松山城を築いた時であったとすれば、小川土佐守が今治の国府城に入った時、湯築城はまだ壊されていなかったことになる。その時から関が原の合戦までの2年間に加藤嘉明を訪ね、嘉明は小川土佐守と共に湯築城を訪れ、そこで酒宴を催したことは無かったか。もしあったならば「土州様」と書かれた土師質土器がこの時に残った可能性はある。何らかの記録は無いものか。

伊豫の土岐氏や山方領主たちの消長 (1)(伊豫漫遊書庫から転載)

February 20, 2007
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「imajouの独り言」(2005-07-29)から転載
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 『伊予河野氏と中世瀬戸内世界』54~57頁に、土岐氏や山方領主の消長に関する記述がある。

 寛正5(1464)年6月26日、久万山出雲入道跡を大野氏に宛行った重見通熙・森山範直・重見元康連署状が発給されている。翌7月4日には、森山範直が寒水西方の知行権を大野氏に手離したことが判明する。こうして大野・森山・重見氏の協力態勢が固められて行く中で、先に述べた寛正伊予の乱が勃発した。彼ら山方領主たちは細川勢を国内に引き入れて、河野氏に敵対する動きを示すのである。

 平岡氏が競望したとされる荏原・久万山地域には土岐一族の所領が存在した〔山内譲-2000〕。文明四(1472)年十一月二十二日、将軍足利義政土岐氏の主張を認めて、美濃・尾張国内の所領とともに伊予の荏原郷西方・久万山内青河等地頭職を「守護使不入の地」として課役免除を行っている。しかし、伊予における権益は不安定だったらしく、土岐氏は大野氏に対して荏原・久万山に関する合力を要請し、土佐・讃岐の細川勢の合力にも期待をかけている。

 土岐氏は鎌倉期に伊予に入国し、南北朝期には荏原郷の浄瑠璃寺の再建を成し遂げるなど、荏原地域一帯に勢力を広げていた一族であったが、戦国期になると平岡氏の台頭の前に次第に勢力が衰えていくことになる。

 15世紀末から16世紀にかけて、予州家が衰え河野氏惣領家が一元的な支配を展開していく中で、国内領主層の守護河野氏への結集は一層進行して行った。『予陽河野家譜』によれば、永正8(1511)年、自立化をはかる宇和・山方衆を抑えるため、平岡次郎や八倉・出淵・得能氏らが攻撃をかけたとされる。実際、土岐氏や森山氏の姿は史料上から次第に見当たらなくなる。細川氏の影響力が衰える中にあって、彼らは平岡氏の急成長の前に駆逐されていったのではないだろうか。

これらの記述から次のような状況が見えて来る。

1.大野氏の勢力は寛正5(1464)年には久万山に伸びていた。

2.土岐氏が伊予に来たのは鎌倉期。鎌倉期のどの時点かが重要だが、それは判らない。

3.平岡氏が台頭し土岐氏を圧迫しつつあったが、文明4(1472)年には、土岐氏はまだ荏原郷西方・久万山内青河等を保持していた。幕府が土岐氏の主張を認めたとは、土岐氏が鎌倉期から持っていた権利を改めて確認したと言う意味ではないか。この時点で新たに「守護使不入の地」としたのではないと思われる。その守護とは、この時点では河野氏であるが、鎌倉期においては宇都宮氏であり、伊豫における土岐氏の立場を暗示する。

4.山方領主たちが細川氏と組んだことは、山方領主たちと細川氏の利害が一致していたからで、細川氏の狙いは河野氏を排除し、伊予を直轄支配することであった。

6.細川氏は既に河野氏と2郡割譲で和議を結んでいるにも拘わらず、勝元は管領の地位を利用して伊豫支配を目論んでいた。だが細川氏は自身が衰えたことにより、その目論見は成功しなかった。

7.河野氏は自立性の強い山方領主の騒動を鎮圧することにより、次第に一元的支配を強めて行った。在来説では叛乱が起きたのは河野氏の弱体化を示すものとしていたが、事実は逆で、河野氏は独立勢力の騒動を鎮圧するごとに支配力を強めて行ったと見るべきである。

8.土岐氏の荏原郷西方・久万山内青河等に対する主張を幕府は認めたが、この時幕府の実験者は細川氏であろう。幕府の決定が細川氏の意向だったとすると、土岐氏の主張を認めることにより、平岡氏の進出を押し留め同時に河野氏の支配権を殺ぐと言う効果を狙ったのではなかろうか。一連の動きから見ると、細川氏は伊豫支配を果たすことが目的であり、そのために山方領主をバックアップしたのであって、土岐氏を盛り立てる意志はなかったように感じる。この決定が細川氏でなく将軍自身の裁断なら、別の見方となる。

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関連年表(参考)

1381(永徳元年/弘和元年):河野氏、東予2郡を割譲することで、細川氏と和議成立。

1392(明徳3年/元中9年):南北朝合一。

1457(長禄元年):河野教通の病により氏族が湯築城に参会する(予陽河野家譜)。

1463(寛正4年):河野氏家臣、重見、森山、南、得能、和田氏らが一揆を企て、細川軍を引き入れようとする。
        通春および教通の弟通生は大内氏に救援を依頼し、共同して細川軍に対抗。(寛正伊予の乱)

1465(寛正6年):大内政弘、「井付合戦」における内藤彌七の戦功を賞す(萩藩閥閲録)。
   ?   :敗れた森山氏は道前に走ったが殺され、南・得能氏も湯月禅城寺で生害、重見飛騨守も湊山城で生害。

        河野氏の影響力強化を意味する。

年未詳    :細川政元書状によれば、浮穴郡の久万山に対する「平岡競望」を退けるよう政元が河野通直に申し遣わし、大野氏にも協力を求めた。宇都宮・森山両氏にも相談して平岡氏を退けるよう求めている。

1467(応仁元年):応仁の乱起こる。

1472(文明四年):将軍足利義政土岐氏の主張を認めて、美濃・尾張国内の所領とともに伊予の荏原郷西方・久万山内青河等地頭職を「守護使不入の地」として課役免除を行う。

1475(文明7年) :檀那河野通直(教通)、願主弥阿弥陀仏によって木像一遍上人立像(国指定重要文化財)造立。

1481(文明13年):河野通直(教通)、石手寺の山門・本堂などを再興する。

1482(文明14年) :河野通春、湊山城で死去する。

1519(永正16年):河野通宣死去

1535(天文4年):「温付堀」の普請が行われる(国分寺文書・仙遊寺文書)。これは弾正少弼通直による湯築城拡張工事を示す記述と考えられる。
 
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尾州河野郷と関連して脇屋義助の逃走経路(伊豫漫遊書庫から転載)

February 28, 2007
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imajouの独り言(2006-08-10)から転載
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 尾張に河野郷が存在したことと、そしてそれが岐南町笠松町一宮市に跨り、木曽川の両側即ち岐阜と愛知に跨る相当に広い領域であることが談話室で紹介され、びっくり仰天だった。
 今日笠松湊を調べていたら、その当時の木曽川は多くの流れに分れ、今の境川が本流であったとの記事を見つけた。そうとすると、河野郷は当時は尾張に属していたことになる。従って、紹介文に尾州河野郷とあったが、それが正しい。
 河野郷がこんな場所にあったとすると、脇屋義助土岐氏に敗れた後、東に逃れれば直ぐに河野郷に至る。義介は土居・得能氏の手引きで河野郷に逃れ、ここから水路を辿って伊豫に来たのではなかろうか。これなら判る気がする。
 但し、承久の変で河野郷が朝廷方で戦っていたら、戦後潰されたはず。この点を確かめる必要がある。

岐阜県の名鉄竹鼻線を挟む2本の堤防(伊豫漫遊書庫から転載)

February 28, 2007
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imajouの独り言(2006-08-21)を転載
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 岐阜県竹鼻線、不破一色駅の辺りで、竹鼻線を挟んで走る2本の堤防があった。その堤防は今は削られて無くなってしまったが、確かに無用の存在と見えた。しかし昔は何らかの必要性があったからこそ、そこに存在したと考えねばならない。考えられる理由として、木曽川長良川が氾濫する危険性が高いので、氾濫に備えて2番目の堤防を設けたという見方はどうだろうか。どうもしっくり来ない。
 つい先日、尾州河野郷がかって存在したこと、現在の木曽川は16世紀末近くの氾濫で出来たもので、それ以前は境川が木曾の本流で、尾張と美濃の境だったことを知り、上記の2本の堤防は、境川が木曾本流だった当時の川の堤防だったのではなかったかと閃いた。そこで国土地理院の地図で確かめるとずばりだ。その2本の堤防は、境川と流路の形がそっくりの足近川と言う小さな川を挟んで走っている。この2本の堤防の間隔が昔の川幅であったとすると、今は小さな川だが昔は大きな川だったと推測される。
 以上から境川が尾張と美濃の境であれば、岐南町から笠松一宮市に跨る河野郷が尾州であったことも、信長の墨俣城尾張から美濃に入って直ぐの場所であったことも判った。今ひとつ、本流の直ぐ近くに上記の大きな支流があったということは、支流は蛸の足のように何本も存在したであろうと思われる。このように当時の地勢を考えると、昔の美濃・尾張に関する見方が大きく変わる。一つの情報が大きく展開したのは、望外の収穫だった。

墨俣城のイメージが変わる(伊豫漫遊書庫から転載)

February 28, 2007
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imajouの独り言(2006-08-22)を転載
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 戦国期の尾張と美濃の国境が境川であったとすると、墨俣城のイメージがすっかり変わってしまった。木曽川が境だとばかり思っていたので、墨俣は敵地に深く入り込んだ場所と錯覚していたが、本当は国境線である境川を渡ったところ、もしくは国境線の境川の中洲だった。敵地深く入り込んだ場所に築いた城なら、堅固な橋頭堡であることは判る。しかし、国境の川を渡ったところに苦労して墨俣城を築いた理由は何だったのか。考え直す必要がある。

中世美濃と尾張の境界(伊豫漫遊書庫から転載)

February 28, 2007
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imajouの独り言(2006-08-22)を転載
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 石野先生の講演資料の中の「中世主要地名分布図」に記載されている地名のうちから、尾張国境の「二木」「市橋」「茜部」がどのような位置であるか調べてみた。幸運なことにこの三つとも現在も地名として残っており、総て境川の右岸に位置している。
 中世においては境川が木曾の本流であって美濃と尾張の境と言われているが、そうとするなら上記三つの地名は中世においても境川の右岸に位置し、境川との位置関係は現在と同じである。このことは、境川の規模は中世のそれより小さくなってはいるが、流路は余り変わっていないことを示す。濃尾平野の川の流れは変動が激しかったと推測されるのに、境川が中世から今に至るまで流路がほぼ同じと言うのは不思議な気もするが、流路を維持しようとする治水の努力などが作用したのだろうか。
 境川が美濃と尾張の境であったとすると、岐南町笠松町羽島市などは、昔は皆尾張に属していたことになる。それが美濃に移ったのは、木曽川の本流が境川から現在の木曽川に変わった後の出来事のはずだが、その時期は知らない。なお、現在の木曽川天正十四年(1586年)の大洪水で出来たと言う。本能寺の変の4年後に当たるので、信長は現在の木曽川を見ていないことになる。中世から戦国期の濃尾平野の歴史を考えるに際し、木曾川の変動をしっかりと認識しておくことが必要である。

三宅川の流路(伊豫漫遊書庫から転載)

February 28, 2007
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imajouの独り言(2006-08-24)を転載
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三宅川が木曽川の昔の本流だったと記したサイトを発見。今は小さな川に変貌し、一部人工の用水路となり、更に暗渠と化して地図上から消えた部分もあるので、流路が非常に判りにくい。それでもやっとのことで凡その見当がついた。上流は河野郷、下に三宅川氏。時期を確かめなくてはならないが、面白くなりそうな予感。

コメント
# てんゆう 『…こと三宅川です。
こちらにもおじゃまさせて頂きます。
私がコメントしなくてはならないような記事ですね(笑)
あちらでも書きましたが、三宅村を流れる川→三宅川なのですが、名の由来はこれとしても、無縁とは思っていないのが私の正直な気持ちです。
美濃と伊勢を又にかけるには、尾張を省くわけにはいかないからです。
川の三宅川は、小河川ながら長い距離を持ちます。
流路変遷によって小河川となってからも、尾張西部一帯に影響を及ぼしたであろう用排水路的な利水治水の役目を果たす川。
そんな同名の川を無視して通り過ぎたとは考えられませんので、もしかしたら一時期旧姓「河野・越智」を名乗っていたのかもしれません。

今後とも河野氏のつながりをきっかけに、歴史の研究のご教示の程宜しくお願い致します。』 (2006/08/27 18:50)

# imajou 『てんゆうさん、ようこそ。
昔は尾張を縦貫する大河であった三宅川を知ると、河野郷の位置に驚かされます。その河野郷と三宅川氏との関係などが判ると面白いのですが、難しいでしょうね。』 (2006/08/27 22:31)