脇屋義助の伊予への脱出ルート

【談話室ゆづきから転載】

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#2981 「無文元選禅師など」より抜粋  美濃林

 脇屋義助は北陸より美濃根尾谷にしばらく居り土岐氏との攻防に破れ熱田神宮経由で四国へ逃れ病死。その逃避行には水運が利用されたものと考えられ河野水軍が関わっていたものであろうと推測しております。宝賀寿男氏著「古代氏族系譜集成」第2章天孫系氏族1252頁の河野系図には美濃の「林」は得能通綱のあとと記されています。

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#2985 「北陸・美濃から伊予・阿蘇・熊本への南朝ルート」より抜粋  marugen

 伊予には、脇屋や新田氏ゆかりの方々の話が各所に残っており、その移動ルートが見えませんでしたが、北陸から、美濃、伊勢、熊野、瀬戸内海突破、今治、忽那島、九州・阿蘇・熊本これが、どうも南朝の主要移動ルートに見えます。このルートに乗れば、なんとか移動可能のようです。

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#2983 脇屋義助  美濃林

 脇屋氏は新田義貞討死後、新田義貞の曽祖父の弟筋だと思いましたがとにかく遠縁に当たる堀口美濃守を頼り根尾に落居。美濃明細記などに記述されていますが手元にありませんので覚えだけですが2年ほど居り、谷汲の華厳寺辺りまで勢力を伸ばしていました。北朝土岐氏南朝勢力の南下を防ぐため現揖斐川町近辺に数多の城(砦?)を構築。二代守護土岐頼遠、頼康(後の三代守護)が攻め、脇屋主従72名となり四国へ逃避したとされています。

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#3003 土居・得能・南朝軍帰国ルート  marugen

 土居・得能軍、北陸陥落の後、生存者はどのルートを通って伊予に帰ったのか、気になっていましたが、脇屋義助と行動を共にしたやもしれないですね。

 伊予では、今城氏が言われるように、脇屋義助は派遣されてきたという雰囲気で紹介されますが、どうやら、かなり大変な逃避行であったことが、美濃のようすから伝わってきます。吉野・熊野も通過しているようですね。

脇屋義助の、突然死も伊予では不思議に描かれていますが、これだけの、心労があったれば、うなづけます。伊予だけを見ていたのでは、見えない事がまた一つ、見えてきました。

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#3005 「Re:3003 土居・得能・南朝軍帰国ルート」より抜粋  今城

 得能勢は金ヶ崎城での敗戦なので、脱出した者も居たでしょう。その時義助はどこに居たのかしりませんが、一緒に山を越えて根尾谷に逃れた人もいたでしょうね。
 地図を並べて眺めているのですが、有名な根尾谷の薄墨桜は根尾川沿いで、標高200mくらいですが、周囲の山は600m級。華厳寺の辺りはかなり下っていて150mほど。周囲の山も3〜400mクラス。土岐氏が砦を築いた揖斐川町は山岳地帯と濃尾平野の境に位置し、揖斐川の東岸は60m弱の模様です。
 義助はここで土岐氏に敗れたということは、山岳地帯を下ってきて、平野部に入る寸前で挫折したことになり、さぞ落胆したでしょう。この後の逃走経路は地勢から見ると楽ではありませんね。濃尾平野は平坦で、岐阜城からですと全部見渡せます。平野部を逃げた場合、ちょっと高い所から見れば直ぐに判ってしまいます。当時は森林が広がっていたなら話は違ってきますが、どうだったのでしょうか。
 舟で川を下ることも考えられますが、根尾川から揖斐川に入るルートでは、土岐氏の勢力圏に近すぎて危ないかもしれません。もう少し東へ行き、長良川を下ることも考えられます。この辺りは当時、どちら側の勢力圏だったのでしょうか。
 もう一つ、山岳地帯を突破して海へ伊勢湾に出るか、そのまま熊野へ抜けたのかも知れません。この場合は道案内する人が不可欠です。
 どういうルートを通ったにせよ、手引きした者が居ないと伊予に辿りつくのは難しく、やはり味方がどこかに居たのでしょう。

 以上、地勢図を見ながらの想像でした。