讃岐国三木郡の地頭・河野通近とは?

【談話室ゆづきから転載】

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#5087 讃岐国三木郡の地頭・河野通近とは?  maru阿弥  10/02 10:29
河野通堯の親族と思われる河野通近が足利義満の声がかりにて、讃岐国三木郡の地頭に補されたという、記録が
http://www.harimaya.com/o_kamon1/buke_keizu/html/aga_miki.html
にみられますが、松山市龍隠寺ゆかりともされる、英賀三木氏は、もともと讃岐国三木郡とも関係が深いようです。
讃岐国三木郡といえば、屋島にも近く、これは遊行様とも何か縁がおありでしょうか?
 

#5088 仰せの通り!  遊行笑人
  10/02 12:08
maru阿弥師・・・田井城(中村城のこと)は私の在所(現・高松市牟礼町大町)の近くの古城です。沿革によればこの土地に住まいを構えて時に、町史を見て・・史料を持っております。
最初の年代は『播州諸家姓氏録』によれば、河野一族三木・・云々江井九良四良通友者、満通二男応永十五年八月二日讃州三木中村之城に生まれる。母者九条雑仕小但馬美濃郡上総介茂長の女云々英賀の住・嘉吉軍乱・討死・英賀は播磨の国餝万郡、光明寺に葬る・云々と記されており、天文年間(1532−55年)に美濃の国から、中村氏宗が元々在ったこの古城に入城している様であります。
尚、通友が34歳で討死の所以は例之赤松満祐が将軍義教を殺した嘉吉の乱の最中のこと。満通は河野一族三木系図では、三木馬頭通近の三男と成っているが、通近は将軍足利義満から満の一字を賜り満通と改めたと記されているので、満通は通近で同人物あり、二男で無くて三男と伝えられています。・・・讃岐は細川氏のお膝元なれば、我等の主人・土佐の国大津天竺城主細川氏の同族、十市・細川源左衛門(宗兆)の配下にて、長宗我部元親の四国讃岐攻めの際にも、この地域・・植田地方の城にも、一時居した旨の記述も『土佐物語』にも書き残されて居ります。
真に不思議な御縁なりけるか?
 
#5090 Re:5088 質問  今城    10/02 15:58
> 「母者九条雑仕小但馬美濃郡」
最後の「美濃郡」は「美嚢郡」ではありませんか。美濃郡だと島根県です。
但し、美嚢郡は播磨で但馬ではありません。

> 「播磨の国餝万郡、光明寺
ここの「餝万郡」は「餝万津」のミスタイプと見ましたが、如何でしょうか。加東市光明寺があります。随分古い寺ですね。
 
#5092 讃岐の国の歴史家は?  遊行笑人  10/02 17:45
今城殿・・・疑問点について調べて見ました。讃岐には三野郡在り・・・其れかと思われるが、美濃郡では無く美濃之国の人だと言う云々・・・又英賀は播磨之国・餝郡の郷名であり云々と解するものと、結論つけておりますね!・・万の字を敢えて除いて、節文をのべておるのも面白い。如何でしょう?
 
#5093 Re:5092 餝萬津の光明寺  今城    10/02 19:57
光明寺姫路市にありました。
姫路市地域夢プラン」に「餝萬津門(飾磨門)」との記述があります。これから餝萬津とは飾磨であることが明らかです。
 
同ページに光明寺が記載されており、そのページにジャンプしますと、「光明寺は、慶長5年(1600)池田輝政の町割りで、飾磨津より移転した浄土宗の名刹。」と紹介されています。
 
さらに「郷土の歴史 木場(きば)の由来」というサイトに『峯相記 には、「文永の頃・・・・ 雲太夫入道餝万津に光明寺を造る・・・・」とある。』と記されています。
 
これらを総合すると、餝万部は餝萬津が正しく、現在は飾磨と変わっています。今は姫路市内にある光明寺は、かっては飾磨(餝萬津)にあったと見てよいでしょう。なお、英賀の現在の所在地は、姫路市飾磨区です。
 
姫路市地域夢プラン」:
http://www2.wagamachi-guide.com/himeji_yumeplan/shisetsulist.asp?sch_id=9&p=2#

光明寺・西福寺(魚町)」:
http://www2.wagamachi-guide.com/himeji_yumeplan/detail.asp?id=4002940

「郷土の歴史 木場(きば)の由来」:
http://www2.117.ne.jp/~ysd/kiba/kiba10.html
 
#5099 Re:5088 通堯と通昌・通近の関係は?  今城    10/03 18:57
通昌と通近の関係が判らないのですが、二人は兄弟ですか。
通昌は通堯の弟ですか、それとも子ですか。景浦先生の「河野氏の研究」では弟となっていますが、某サイトでは子と書かれています。頭が混乱してパニック状態になりそうです。