土佐の坂本竜馬さんの脱藩ルートは?(2)

〈土佐の坂本竜馬さんの脱藩ルートは?(1)からの続き〉

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12 名前:今城 投稿日: 2004/11/27(土) 20:18
> 梼原よりに進み、土佐伊予の山越え久万への古道がその昔は伊予への道也。
 
この道が古道でしたか。凡その見当はつきます。梼原−柳谷村美川村久万町へ続く道ですね。
 
お栄さんご紹介のHPに記されている竜馬脱藩の道は、これより西になりますね。梼原−野村町−河辺村−小田町へと抜けます。
以前野村町から大野ヶ原に行った時、途中で竜馬脱藩の道と記した標識が、道沿いの林の中にあるのを見つけました。その凡その位置は、お栄さん語紹介のHPの地図で言いますと榎の南南東に当ります。そこには現在南北の道はありません。地勢から見て過去現在に至るまで道などあり得ない場所です。有っても獣道だけでしょう。それを見て、竜馬は河辺村に至るまでは森の中を抜けて来たのだと思いました。人目につかないルートを選んだのでしょう。
 
お栄さんに一つ質問があります。地図を見ますと榎と言う地名が河辺村にも野村町にもあります。お栄さんは「河辺村榎ヶ峠」と書いていらっしゃいますが、野村町の榎の方がルートに合っているように思うのですが、いかがでしょうか。古書に河辺村と記されているのでしょうか。
 
13 名前:今城 投稿日: 2004/11/29(月) 00:06
田内勢の進撃路について、私見を述べて見ます。
 
> 阿波国を出でて、土佐国に入り伊予の国河野氏の源氏方の多いと考えられる伊予道を
> 西進するのはリスクが高すぎるのでは?
 
田内勢が進軍を避けねばならぬ程、伊予道の源氏勢が強いなら、屋島を手薄にするのはとんでもない愚行です。河野氏を討つ前に近くの源氏勢を掃討しなければなりません。平家方は屋島を手薄にしてまで遠くの河野氏討伐に出かけたのは、何ら危険を感じていなかったからでしょう。
また、通信は田内勢が出発する前から比志城にいたのではありません。現に通信が伊予市高市氏を攻めたのは、田内勢の進軍途中のことと考えられます。ですから田内勢の攻撃目標は最初から比志城と決まっていたはずはありません。攻撃目標は河野氏であって、高市氏を攻めた通信の居場所を探りながら進んだはずです。そうとすると、田内勢が阿波から土佐経由で比志城に向かったとは考えられません。
私は通信が比志城で迎え撃ったこと自体が不思議でした。比志城で戦ったと言う記事は、河野氏関係の書に記されているだけらしいので、これが本当かどうかは、証明する史料の出現を待つしかありませんが、真実だとするなら、談話室に書いたように通信の作戦で、田内勢は比志城に誘い込まれたと考えるしかないと思います。
 
14 名前:遊行笑人 投稿日: 2004/11/29(月) 07:23
今城殿、これも笑人の私見ですが、源頼朝の挙兵が1180年と聞けば、土佐の国に流された希義殿が呼応して介良城を出て夜須で討ち取られた年月日は寿永元年1882年三月二五日なれば、土佐の国の勢力は国司は誰か?武士団は?寧ろ平家の勢力下ではなかったか?源氏の頼朝の弟が流された史実なれば、少なくとも以前から源氏の勢力が薄い、若しくは流す土地は源氏の勢力外の条件でなければ、道理が通らぬと思います。義経殿の出陣は元暦元年1184年正月・
その後時代は移り、屋島の戦は文治元年1185年三月二十一日なれば、西国の状況は両雄の勢力の体制堅めは夫々の思惑で、各地の勢力を味方につける策が、企まれたと考えます。其処で平家物語の信憑性を十分、検討、符号性を他の書物対比で重ねる必要もあり、例えばこの阿波国田口の軍勢の総帥成(重)能の人名辞典の説文の内容は下記の通りの記述です。
『平安末期の阿波国の有力座地武士・寿永二年1183年平氏西走に際し、一族以下1000騎を率いて此れに強力、四国に平氏の拠点確保に力が有ったと。又続けて、屋島合戦の時阿波に上陸した義経の為に、弟の桜庭介良遠が敗走させられ、又屋島が陥った翌日、志度寺に篭った平氏軍の一部が義経の襲撃を受けた際、同族の阿波教能が源氏に下ると。重ねて、壇ノ浦合戦では成能は戦の途中で300艘をもって源氏方に寝返ったような記述も見られるが、定かではないとも追記されている。さて笑のストーリーは源希義の討たれた時代から、源氏・平家の配陣、陣取り合戦はそれなりに時間を掛けて、準備・手配・戦略が立てられるタイムラグを考えれば、河野通清・通信の源氏方への呼応から、伊予国比志の合戦までにも、平氏方田口氏一族は要衝の湊を固め、所々に配置を企んだと考えれば、伊予の西方の要衝で有った(純友の時代からも)大洲方面への進軍も当然視野に入れていたかもと考えれば、福良通豊が比志城で田口軍と戦い、篭り、最後に討ち死にの状況で、通信殿の軍勢が援軍として到着し、田口軍を敗走させたものと推理も出来るのでは?如何でしょう?この説から田口氏は平家の四国の在地豪族として、阿波国府から土佐国府を難なく通り抜け、西進し梼原・久万方面・若しくは現在の197号線のルートまでとは言わないが、坂本龍馬さんの脱藩古道を駆け抜けたと推理すれば、話が盛り上がるのでは無いでしょうか!?
 
15 名前:遊行笑人 投稿日: 2004/11/29(月) 11:49
前文中二行目の年代を1882年で打ち込みましたが1182年です。訂正します。
 
17 名前:今城 投稿日: 2004/11/29(月) 14:03
遊行笑人さん
私が今回意図したのは、平家物語吾妻鏡、予章記、水里玄義に書かれていることを事実とした場合、比志城合戦の実像はどうであったかを推理することであって、この四書の記述に基づく限り、笑人さんのお考えは成り立たぬことは既に述べた通りです。
この四つの書から離れた推理、或いはそれを否定する推理で盛り上げようとなさるなら、その論拠を示して下されば、それに基づいて私も推理してみます。
 
18 名前:遊行笑人 投稿日: 2004/12/01(水) 19:31
今城殿、竜馬さんの道筋梼原町で聞きました。以下の通りです。
文久二年高知を出発・25日梼原に到着・其の夜、梼原の勤皇の志士那須俊平と信吾親子に案内を受け宮野之番屋を抜けて、四万川や谷の松ヶ峠を抜けて予土国境の韮ガ峠を越えて、伊予の国に脱藩、俊平の案内にて小屋村(野村町)水ヶ峠(川辺町)を経て、泉ヶ峠(五十崎)に宿泊し、宿間村(五十崎)に着くと記されております。この道とは別に久万経由の古道もあり、土佐の国府と伊予の国府を結ぶ古道也。
伊予国源氏方河野通清・通信氏の背後を突く、奇襲作戦が阿波の平家方の田口氏が前もって計画されていたとすれば、此のルートは河野氏の軍勢に気着かれずに攻め入る戦術としては、笑人好みの既成概念の否定の精神の良策の感の所以であり、余り気を使わないで下さい。

19 名前:今城 投稿日: 2004/12/01(水) 22:14
どんな説を唱えても構いませんし、それに気を使っているわけでもありません。
私が言っていることは、#17にも書いたように、四つの書に書かれていることを無理なく解釈するには、田内勢が竜馬脱藩の道を通ったとしては論理が通らないと言うことです。
ですからその四つの書に拘らなければ、違ったストーリーを考えることは可能でしょう。別の仮定から出発して、竜馬脱藩の道を通るような推理を展開するのも一興かも知れません。
 
#18の竜馬脱藩の道は、韮ガ峠や水ヶ峠、泉ヶ峠がどこか判らないので勘に近いのですが、お栄さんご紹介のルートと一致し、私が見た標識の場所もそのルート上に当ると思います。河辺村の資料を入手したいですね。
 
20 名前:お栄 投稿日: 2004/12/26(日) 20:19
坂本龍馬銅像は、現在、月の名所としても名高い桂浜に、太平洋をにらむように
建てられています。
この銅像を制作したところ、ご存じですか?
(^m^)ホホホ・・・
銅像の下の方に「角川美術鋳造所」と記載がございます。
今朝のことでございます。さる方よりお電話をいただきました。
高知市の競輪所長吉松さんです。
「20日上京し、龍馬銅像を造ったところ行って来たぜよ。お栄さん、いくかよ!」
「もちろん行きます。それはどこですの?」
「東京じゃ!北区上中里、JRのおく駅の近くじゃ。戦争でもとの工場は焼けたが、息子さん達が今もやりゆうぜよ。最も、2人とも80歳を超えちゅうけんど・・。
いついくかや?」
「1月にはいきたいね!」
「そうじゃ、早ういかんとね!行くとき言いや。電話しとくし、ちずもよういしとくから・・」
 
ありがたい電話です。
いろいろな歴史フアンがいます。彼は赤い虫を古い建物で見つけます。その研究中!
高知の歴史資料が見たいとき、いつもお世話になります。
私の大切な歴史探検隊のメンバーです。
 
今日はちょっといいお話を聞きましたので、ご披露いたします。
1月は是非上京して、鋳造所を尋ねましょう。
ただ、ご兄弟、80歳を超えたご高齢似て、ご自分の誕生日を覚えていない状態とのこと、どっこまでお話しいただけるか・・・??
ちょっと気にかかることですが・・・