河野氏の後裔で大名になったのは?

【談話室ゆづきから転載】

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#3081 河野氏の後裔で大名になったのは?  下総介
ご無沙汰しています。今年2月には来島水軍の地、大分県玖珠町森にいってきました。来島改め久留島を姓としていました。そして山口県の長府もいきましたら、藩祖・毛利秀元(一時期毛利軍団を統率した人物)の妻が河野出雲守通康の息女と書いてありました。その生まれた子が長府藩をついでいます。河野一族の末裔が大名として残っているとするならば、稲葉は別として、久留島家と長府藩・毛利氏と考えてよろしいでしょうか?

#3087 Re:#3081 河野氏の後裔で大名に・・・  今城
下総介様
レスが遅れ申し訳ありません。既に遊行笑人さんがレスしておられますが、私が知る所を少しばかり付言致します。
「河野一族の末裔が大名として残っている」が河野氏の血が入っているという意味ならば、仰せの如く久留島氏は該当します。久留島氏は通康−通総−康親−通春・・・と続き、通総は通康と弾正少弼通直の娘との間に生まれた子であるからです。
一方長府藩毛利氏の祖・秀元の母は来島通康の娘ですが、この娘の母が誰であるか、私は寡聞にして知りません。通康には二人の妻がいて、一人は弾正少弼通直の娘、もう一人は宍戸隆家の嫡女です。この隆家嫡女と通康との娘が秀元の母であるなら、秀元に河野氏の血が入っているとは言えないでしょう。従いまして秀元の母の母が誰であるかを確認する必要があると思います。なお、この隆家嫡女は後に河野通宣正室になっています。このあたりは近年の研究で明らかになりました。
【伊予河野氏と中世瀬戸内世界(川岡勉・西尾和美共著)愛媛新聞社刊】
本件で、長府で通康を河野通康としているのは、通康が河野氏であると認識していることになり、これには驚きました。何に基づいているのか、根拠を知りたい所です。
ところで、通康自身についても注目すべき研究があります。それは、通康が弾正少弼通直の庶子であるというものです。この件はまだ仮説でして、大方の承認が得られる段階に至ってはいませんが、これが正しければ色々と頷ける問題もあり、一概に否定できないものがあります。これを承認するなら、秀元の母の母が誰であろうとも、秀元は河野氏の血を引くことになります。
稲葉氏らについては河野一族と言われながら、学術的には未だ実証されていないことはご承知と思います。今後の研究の進展を待つしかないでしょう。