千里城

千里城があった城山は凄い地勢。標高593m。東側・北側・西側は深い谷に落ち、南側からしか登れない。源平争乱時には福良新三郎通豊の居城で、河野氏討伐に遠征して来た田内(でんない)左衛門尉則良をここで迎え撃ち、南北朝期には楠正成を自害に追い込んだと伝えられている大森彦七の居城であった。西にある銚子ダムの堰堤から写した写真を紹介する。


千里城があった城山。撮影場所の背後は銚子ダム。写真の右下の白いものは道路脇の欄干、下は断崖。

右側が城山で上の写真の左側面。画面中央に見える白い筋は麓を巡る道。手前に向かえば砥部、向こうに行くと広田村。源平争乱時の道がここであったなら、田内勢は砥部からこの道を進み、城山の南側に廻り込んだのであろう。当時の道はもっと下にあったのなら、千里城攻撃は容易ではなかったと推測される。
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