脇屋義助(1)

【談話室ゆづきから転載】

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#2981 無文元選禅師など  美濃林  2004/12/05
もともと美濃は南朝方です。(土岐氏北朝)。方広寺寺史。「椿洞了義寺」の由緒書きによれば「應安四年、後醍醐天皇第五王子無文禅師開山、伊予守河野通村一寺建立、瑞椿山了義寺と云ふ」(1371){應安年度、後醍醐天皇の第五皇子無文禅師の御肉兄宗良親王當村に来り、御兄の宮の御病の旨を聞き召され、薬師如来の尊像を起請し専ら平癒を御祈願遊ばされしとぞ」妙徳寺系譜図によれば「貞治元壬寅春来たり、志賀洞山麓に庵を結んで亦名を帰休庵とす」妙徳寺は無文禅師開山。無文禅師は1362〜至徳元年1384まで美濃に関わりがあったようです。加賀藤原姓林氏(南朝方)については{中世加賀の群像」林六郎光明殿のHPご参考。吉田東伍著「大日本地名辞書」には「大野郡清水(現揖斐川町清水)は伊予河野党の人々の流寓して居れる処」と記されています。「稲葉氏由緒答問録」には稲葉塩塵の父祖は「得能長太郎」と、はっきり書かれています。脇屋義助は北陸より美濃根尾谷にしばらく居り土岐氏との攻防に破れ熱田神宮経由で四国へ逃れ病死。その逃避行には水運が利用されたものと考えられ河野水軍が関わっていたものであろうと推測しております。宝賀寿男氏著「古代氏族系譜集成」第2章天孫系氏族1252頁の河野系図には美濃の「林」は得能通綱のあとと記されています。
 
#2985 北陸・美濃から伊予・阿蘇・熊本への南朝ルート  marugen  2004/12/06
講演会ご報告ありがとうございます。
出席出来無かった方々にも、概略が分かるよう、ゆづき、別冊3号、期待致しております。
美濃と伊予の関連は非常に興味深いものがあります。
特に、湯付きの対抗、南朝の大きな移動ルートが見えてきます。
ちなみに、河野通村は、土居氏ではないかと思われます。
得能氏であれば、南朝の雄。得能通綱の前にあたり、北陸の激戦は、年齢的に酷ですし1300年代後半まで生きるのも大変です。年令は通有に近いと思います。
得能通村の兄にあたる得能通純の墓と伝えられている寺が、私の家の近くにあります。
松山藩・松平の菩提寺になっていますが、
昔は、味酒山城(現・松山城南朝の中心的な寺ではなかったかと思っています。
伊予には、脇屋や新田氏ゆかりの方々の話が各所に残っており、その移動ルートが見えませんでしたが、北陸から、美濃、伊勢、熊野、瀬戸内海突破、今治、忽那島、九州・阿蘇・熊本。これが、どうも南朝の主要移動ルートに見えます。
このルートに乗れば、なんとか移動可能のようです。
 
#2991 脇屋義助  今城  2004/12/06
脇屋義助が四国に来たのは、南朝勢強化のため派遣されて来たという印象だったのですが、そうではなく、北陸で敗れて伊予に逃げて来たのですか?
根尾谷の位置を地図で確認し、福井県との位置関係を確かめました。
その際に福井県との境に能郷白山という山を見つけました。この山も白山同様に白山信仰と関係するのでしょうか。
義助は伊予に着いて直ぐ死んでしまいましたが、期間が短かった割りにはあちこちに足跡を残していますね。僅かの間に飛び回ったのでしょうか。
 
#2993 脇屋義助  美濃林  2004/12/06
脇屋氏は新田義貞討死後、新田義貞の曽祖父の弟筋だと思いましたがとにかく遠縁に当たる堀口美濃守を頼り根尾に落居。美濃明細記などに記述されていますが手元にありませんので覚えだけですが2年ほど居り、谷汲の華厳寺辺りまで勢力を伸ばしていました。北朝土岐氏南朝勢力の南下を防ぐため現揖斐川町近辺に数多の城(砦?)を構築。二代守護土岐頼遠、頼康(後の三代守護)が攻め、脇屋主従72名となり四国へ逃避したとされています。
 
#2994 白山  美濃林  2004/12/06
白山信仰の平泉寺などは、強大な軍事力を持っていましたが一向一揆で滅びました。白鳥町の白山長滝寺は、奈良時代の公卿八名が来て現在若宮家が継いでいます。美濃は白山神社が多くいたるところにありいずれも土岐氏と関わりがあるケースが多く、伊予の白山神社土岐氏の足跡を示唆するものではないかと井澤氏などがお聞きしたことがあると思います。
 
#2999 愛媛の白山神社  今城  2004/12/06
愛媛の白山神社を探してみましたところ、次の3つが見付かりました。
1.城辺町岩水
2.城辺町脇本
3.新居浜市中村2
 
このほかに、白山神社と関係があるのかどうか知りませんが、白山権現岩屋寺にあります。
以前、浮穴郡にあるのを見た気がしますが、見つかりませんでした。城辺町の2社は海岸近くにあり、白山神社のイメージに合わない感じがします。新居浜市も低い所にあるようです。いずれも神社の由来は書いてありませんでした。
 
#3003 土居・得能・南朝軍帰国ルート  marugen  2004/12/07
土居・得能・南朝軍帰国ルート
土居・得能軍、北陸陥落の後、生存者はどのルートを通って伊予に帰ったのか、気になっていましたが脇屋義助と、行動を共にしたやもしれないですね。
伊予では、今城氏が言われるよう脇屋義助は派遣されてきたという雰囲気で紹介されますが、どうやら、かなり大変な、逃避行であったことが、
美濃のようすから、伝わってきます。
吉野・熊野も通過しているようですね。
脇屋義助の、突然死も伊予では不思議に描かれていますが、これだけの、心労があったれば、うなづけます。
伊予だけを見ていたのでは、見えない事がまた一つ、見えてきました。
 
#3005 Re:3003 土居・得能・南朝軍帰国ルート  今城  2004/12/07
土居勢は全滅したと思いますよ。土居勢は折からの雪に身動きできなくなったところを襲われ、自決したと伝えられています。雪の少ない土居庄の人が豪雪地帯に入り込んだのがそもそもの間違い。慣れた土地なら気象の変化を読めますが、土地に不案内だったため大雪の予想が出来なかったのか、豪雪地帯の雪の凄さの見当がつかなかったのか、いずれにせよ豪雪の経験がなかったことによる悲劇だったと思われます。
得能勢は金ヶ崎城での敗戦なので、脱出した者も居たでしょう。その時義助はどこに居たのかしりませんが、一緒に山を越えて根尾谷に逃れた人もいたでしょうね。
地図を並べて眺めているのですが、有名な根尾谷の薄墨桜は根尾川沿いで、標高200mくらいですが、周囲の山は600m級。華厳寺の辺りはかなり下っていて150mほど。周囲の山も3〜400mクラス。土岐氏が砦を築いた揖斐川町は山岳地帯と濃尾平野の境に位置し、揖斐川の東岸は60m弱の模様です。
義助はここで土岐氏に敗れたということは、山岳地帯を下ってきて、平野部に入る寸前で挫折したことになり、さぞ落胆したでしょう。この後の逃走経路は地勢から見ると楽ではありませんね。濃尾平野は平坦で、岐阜城からですと全部見渡せます。平野部を逃げた場合、ちょっと高い所から見れば直ぐに判ってしまいます。
当時は森林が広がっていたなら話は違ってきますが、どうだったのでしょうか。
舟で川を下ることも考えられますが、根尾川から揖斐川に入るルートでは、土岐 氏の勢力圏に近すぎて危ないかもしれません。もう少し東へ行き、長良川を下るこ とも考えられます。この辺りは当時、どちら側の勢力圏だったのでしょうか。
もう一つ、山岳地帯を突破して海へ伊勢湾に出るか、そのまま熊野へ抜けたのかも知れません。この場合は道案内する人が不可欠です。
どういうルートを通ったにせよ、手引きした者が居ないと伊予に辿りつくのは難しく、やはり味方がどこかに居たのでしょう。
以上、地勢図を見ながらの想像でした。
 
#3006 中世・南朝レジスタンス運動  marugen  2004/12/07
 今城さん、土居軍を全滅させないで下さいよ。
得能軍にも、土居軍の連絡係りがいるでしょうし、八甲田山死の彷徨でも、生き残ったものがいますから、土居軍にもしぶとく、生き残ってもらいたい。
新田軍は、白山神社北朝への転向でやられたと聞きますし、土岐軍、白山軍にはばまれた、義助軍、かなりの難儀が想像されます。
土岐軍も、南・北に別れたそうですから、かろうじて、南朝寄りを頼って、落ちていったのでしょうか。
伊予の得能、特に日浦の得能は、山道に熟知しています。
四方・八方、きこり道のようなものが伸びており、どちらへでも、抜けれる位置に配置していますし、新田氏の子孫達も、そう言う場所を選びながら逃避行をしたのでしょう。
まったく、中世のレジスタンス運動を見ている思いがします。
(続く)