脇屋義助(2)

【談話室ゆづきから転載】

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#3007 御礼  美濃林  2004/12/07
四国の皆様方には、小生の推測に対し、いろいろとご考察に預かり厚く御礼申しあげます。土岐頼康(三代守護)の父土岐頼清も伊予におり足利尊氏の召しにより京へ向かう徒次に病死。土岐頼康また土岐揖斐氏も伊予に居たとされています。脇屋義助の美濃脱出には、土岐氏河野氏の関係があり脱出できたのではないかと思われます。また現在の川筋とは相当異なり、何々島などの地名も散見されその辺りは川であったと考えられます。ルートは判明しませんが今でも大垣市は水都と言われ伊勢湾に通じる水運が発達していたと思います。石野氏の論文中の河野墨俣氏は、まさにその水運を示唆しているものと思います。河野墨俣氏は本宗家河野通盛の指示により延暦寺攻撃に参加しています。美濃の西には河野墨俣氏、東には椿洞河野氏(系図には27町歩所有と有) 無文元選禅師も何の根拠もなく、突然美濃へ来て寺を開山できるはずがありません。無文禅師に協力するなんらかの勢力を持った人々が以前から住んでいたのではないかと思います。
 
#3008 稲葉氏など  美濃林  2004/12/07
平泉寺は信念のない勢力で、為に滅びたのではないかと思います。福井駅からタクシーで10分ほどのところに新田神社があります。明智一族宮城家相系図書にある明智家の姻戚進士山岸家は石川県江沼郡出身。加賀藤原姓林氏も江沼郡です。多分脇屋氏とともに北陸から脱出してきたのではないかと思います。その後土岐氏に随順することとなったと思います。「江沼郡林郷の住人・・暦応2年敗れて当国に逃れ・・」。
また「塩塵」は「稲葉鹽塵」です。(塩の中の塵の如し)
その父として系図上、稲葉備中守通以(法名元塵)通以子通富稲葉伊予守(法名鹽塵)彦六、備中守、伊予守、右京亮など使用。通以の父稲葉七郎刑部少輔越智通高始め豫州の住人なり。後美濃国に入りて土岐氏に随順せり。本巣郡軽海の城に住す。康暦元年11月豫州外木の城にて細川頼之と戦い打ち負けて始めて美濃国に落ち来り。「美濃国諸旧記」
 
#3009 Re:3007 昔の地勢  今城  2004/12/07
美濃林さん
> 現在の川筋とは相当異なり、何々島などの地名も散見されその辺りは川であったと考えられます。
この件は良く判ります。松山でも今は海からかなり離れた場所なのに、昔漁師が網の錘に使った石が沢山出土したりします。かってはそこが海または海岸であった証拠です。予讃線も昔は海であったところを走っている箇所が幾つもあります。ですから伊勢湾も中世には今より相当陸地に入り込んでいたことでしょう。伊勢湾台風で多数の死者を出したのも、そのような地勢と関係がありますね。海面が上昇したら、濃尾平野は相当部分が水没するのではないでしょうか。
当時の地勢なら義助は意外に容易に海に出れたのかも知れません。往時の地勢を解明することが重要です。湯築城の防御機能や色々な謎も、往時の地勢を考察して始めて見えて来ます。国土地理院縄文時代から現在に至る関東平野形成過程を、動画で見せています。これを濃尾平野や伊予についてもやって欲しいと願っています。
 
#3010 讃岐に逃れてこられた脇屋義冶殿  遊行笑人  2004/12/07
この方は義助の子、新田義貞の甥ですよ!笑人びっくり!常に父と共に吉野朝の為に戦ってきて、天平七年三月、従兄新田義興と其の弟義宗は上野で兵を挙げた尊氏と金井原で戦う、義冶は義興と共に良く戦い、一度は鎌倉を占拠したが、三月には鎌倉から退き相模の国府津の山に隠れる。その後足利氏の重臣細川氏は新田・脇屋などの一族を追い求める急なので、義冶・義長親子は讃岐に渡り、大内郡丹生(にぶ・現在の東香川市丹生)の長福寺に隠れて、土居氏の一族と名乗りて住み付き、中山に脇屋城を築き、今に『脇屋庵』と称す、観音像がある城跡があると。
伊予まで逃げずに、讃岐に土居氏の名を名乗り身を隠したとは、ななかなか・・やるじゃない!
 
#3011 白山神社  美濃源氏フォーラム澤源  2004/12/07
山内譲氏曰く、土岐氏が所領した上浮穴郡赤蔵ケ池(あぞがいけ)付近に白山神社が目立つとの事。このことより、比叡山直結の情報が伊予まで届く為の情報伝達を想定するようになりました。
 
#3013 赤蔵ケ池は山岳地帯の奥深くにあり  今城  2004/12/08
赤蔵ケ池を見つけました。大変な所で容易には行けそうもない感じです。
周囲を850〜900mの山に囲まれた窪みのように見受けます。その東北東凡そ4kmの辺りに神社が一つありますが、名前は記されていません。地製図を見ての印象ですが、城辺町白山神社とは違い、修験者・山伏が入りそうな所と思いました。
山内譲先生がこんな所まで調査にいらしたとすると、凄いの一語です。
(続く)