脇屋義助(3)

【談話室ゆづきから転載】

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#3024 Re:3007 こちらこそ御礼を  今城  2004/12/09
先日の脇屋義助の脱出ルートの件は、私にとって思わぬ収穫でした。情報をお寄せ下さった美濃林さんに厚く御礼申し上げます。
収穫と言いますのは、私の中で孤立した点情報の幾つかが線で結ばれたことです。新田義貞の北陸での戦いと討ち死に、義助の伊予渡航と急死、土岐氏、伊予の土岐氏など色々とお話を伺っても、いずれも私には点情報の域を出ず、関連が全然見えて来ませんでした。
例えば、義助が伊予に来たと言っても、大軍を連れて来たでもなく、それでいて何らかの目的で派遣されて来たかのように受け取れる記述、ところが義助の急死により南朝方は目論見が崩れて勢力回復がならなかったような説明。そして義助が死んだあと、代わる手段を講じた形跡もなく、連れて来た筈の部下達がどうなったかという話もありませんでした。従って義助が伊予に来た件は、他との関連が一切見えない、孤立した点情報でしかありませんでした。
それが今回の脱出ルートのお話を切っ掛けに、点情報の幾つかが結びつき、義助がやって来た理由やそれに関連する各地の動きもイメージが浮かぶようになり、また今まで抱いていた疑問も氷解した感じです。そして一番大きかったのは、始めて美濃と伊予の関連を見て行く上でのフックが出来たと思えたことです。まだ糸口が開いたに過ぎませんが、これからは点情報が何かに結びつきネットワーク化して行くのではないかと楽しみにしております。このような手掛かりを提供して頂きましたことを、重ねて御礼申し上げます。
 
#3025 インターネット地域学・歴史学の醍醐味  marugen  2004/12/09
インターネット地域学・歴史学の醍醐味
新田・脇屋氏の件、確かにネット上の力ですね。
各地域の、地域学や歴史学が、各地域だけでは、見え無かった事が、おおきな繋がりで、見えてきますね。
これは、インターネット地域学・歴史学の醍醐味ですね。
まだまだ、おもしろいことが見えてきそうです。 楽しみです。
 
#3026 推測です  美濃林  2004/12/09
1336年新田義貞、皇太子を奉じ越前国に行く。同年得能通綱、江州高島郡塩津山見の曲にて討死。1337年新田義貞高師泰と金崎城に戦う。義貞敗走する。1338年新田義貞越前国藤島で討死。1339年(暦応2)脇屋義助、根尾に逃れる。1341年(暦応4)土岐頼遠脇屋義助を根尾で破る。1370年(応安3年12月5日)細川頼之、土岐頼康討伐を企てる。1371年(応安4)無文元選禅師守護のため河野伊予守通村美濃へ来住。
堀口美濃守貞義、貞満=新田義貞曽祖父政氏の弟堀口孫二郎男根尾宇津志村山城。
脇屋氏は数百人規模で根尾に逃れたのであろうと思います。根尾谷一帯は気候も厳しく大人数が住むには困難な地です。一族を伴って来たであろう山岸、林、富樫(林、富樫は同族)などの北陸の土豪たち、または土居、河野庶流など一部の人達は、次第に土岐氏に随順し命脈を保ったのではないかと思います。