河野氏と来島村上氏

【談話室ゆづき】から転載
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#0575 河野氏来島村上氏  寺川  2000/05/20
初めまして(non)。某大学院生の寺川です。戦国期の伊予国について研究しております。湯築城を守る会にはかれこれ3,4年お世話になっております。いま大学のパソコンから勝手に送っております。ちゃんと届くか心配ですが・・・前々からこの談話室に参加したいと思ってましたので、以後頻繁に顔を出したいと思います。よろしくお願いします。
ところで、最近戦国期の河野氏研究において、海賊衆来島村上氏の当主村上通康に焦点が当てられています。西尾先生は、河野氏権力の中枢に通康が位置しており、安芸の毛利氏はこの通康に接近することで河野氏との提携を深め、婚姻関係、特に元就の外孫となる牛福丸通直を当主に据えることで自らの支配のネットワークに組み込んだ。そして、それが小早川隆景の伊予拝領の前提ともなったことを指摘されています。
また川岡先生は、天文期の河野氏権力について、家臣団が旧来の一族庶流・譜代層と新興国人層の二派が両存・対立し、それが家督争い「来島騒動」として顕在化したことを述べられています。後者の筆頭となったのが弾正少弼通直の女婿、村上通康でした。
私も、これらの先学の成果を踏まえて「来島騒動」について焦点を当てて、その真相解明を試みました。この騒動について、通説として弾正少弼通直が女婿の村上通康家督を譲ろうとして家臣団の反発に遭い、家臣団は予州家通政を擁立、通直・通康勢と湯築城、ついで来島城に戦い、和議を結んで通政(晴通)が当主となったという『予陽河野家譜』の記述が信用されてきましたが、これはこのままでは信用できないことを明らかにしました。問題点は以下の通りです。少々長くなりますが、お暇な方は是非・・・f(→o←)
第一に、通直と晴通の関係について、晴通の実父とされる予州家通存の花押と晴通のものの形状が著しく異なっており、晴通が予州家の人間とは見なしがたく、また、将軍足利義晴の御内書の発給状況などから、通直と晴通は実の父子である可能性の方がむしろ高いのではないかと思われます。
第二に、通直と通康の関係について、単なる女婿である一国人に守護大名河野氏家督を継がせることが可能であったのかどうか。当時の慣例からは考えられず、また、家臣団の反発を買うのは必至であり、そのような暴挙にでるとは考えがたいと思われます。しかし、通康の父とされる丹後守康吉なる人物を一次史料で確認できず、通康の母の存在を示す大浜八幡宮棟札の書き方と通直女と通康の婚姻、さらに河野氏の分国支配における府中地域の重要性などを併せて考えた結果、通康は通直の庶子であり、府中地域の押さえとして影響力の強い来島村上氏の当主に送り込まれたのではないか、と推測しました。そうなると、通康は晴通と同じく河野氏家督継承の可能性は皆無ではなくなり、『予陽河野家譜』の述べる通直の思惑もある程度説明が可能になります。
第三に、この「来島騒動」は単に伊予国内の問題として捉えて良いのか、ということです。この騒動の背景には周辺有力守護大名との関係があり、それと連関させて考察する必要があります。すなわち、当時の河野氏権力において、幕府との関係はいうまでもなく、他に少なくとも豊後大友氏との関係と、防長大内氏との関係が外交政策の問題としてあったはずです。西尾先生は通宣(刑部大輔)・通直・通宣(左京大夫)の三代が大友氏と婚姻関係を結んでいたことを指摘されています。私も、新史料から晴通室は大友義鑑女であることを指摘し、晴通の没後、実弟通宣に再嫁したのではないかと推測しました。
このように、婚姻関係からは河野氏の大友氏への傾倒が読みとれますが、『予陽河野家譜』に大内義興の上洛に刑部大輔通宣も従ったという記事もあるように、河野氏大内氏との関係も軽視できませんでした。ここに河野氏の分国支配が二元化する要因があります。大友氏・大内氏の対立構図のなかで、河野氏は微妙なバランスを保ちつつ分国支配にあたるため、また、統治拠点が湯築城と府中に分立していたため、当主層及び家臣団は自然と両派に分化したのです。史料の少ない現状では断定はできませんが、それが「来島騒動」の素地となったものと思われます。
すなわち、村上通康大内氏寄りの存在であったという金谷氏の指摘などから、大内氏との窓口としての通康と通直を親大内派、大友義鑑を義父とする晴通と彼を擁する家臣団を親大友派と規定し、その両派の軍事的対立として「来島騒動」を評価する必要があるのではないか、ということです。もっとも、この天文期は、甲斐武田氏陸奥伊達氏、豊後大友氏でも父子対立が見られるように、守護大名の権力構造に変質が認められる1つの画期です。通直が湯築城の外堀の築造を行ったのは、当然軍事的要因もありますが、当主権力への一元化を図るという意味で一種の視覚的・権威的効果が期待されていたという一面も見逃せないでしょう。そうした専制的な当主権力への家臣団の反発、という面もあったとみてしかるべきです。
来島村上氏は、周知の通りその後も中国地方の大名権力毛利氏と密接な関係をもちます。しかも、通康の居所が道後湯築城内にあったということですから、左京大夫通宣の治世においても、河野氏内部には親毛利派と親大友派(主として平岡氏・能島村上氏)という両派の内存があったのでしょう。しかし、宮尾氏の規定する晴通(没後は通宣)とその家臣団による「道後政権」はクーデターにより通直から政権を剥奪したのち、一定の安定性をもって分国統治にあたったようです。ただ、晴通没後の河野氏権力は、その様子を次第に変え、毛利氏への傾倒を強めていきます。そして、天正十三年の豊臣秀吉四国征伐による伊予国没収と小早川隆景の伊予拝領により、河野氏は大名としての幕を閉じるのです。
最後に、村上通総の離叛について、従来この「来島騒動」で父通康が河野氏を継承できなかったことを遺恨に思い、秀吉のもとへ走ったとされますが、通康と同じく、通総にも家督継承権があったのではと考えると、状況は少し違ってきます。『愛媛面影』には、通総が晴通の婿となり風早郡に化粧田を受け取ったという伝承がありますが、風早への来島村上氏の支配権がこれを契機に生じたかどうかは断定できないにしろ、晴通と通総との婚姻関係は何を示唆するのか気になります。通総の幼名牛松丸と、通直の牛福丸・・・この奇妙な類似はこの伝承と無関係ではないでしょう。すなわち、通総も河野氏の当主層に極めて近い存在であったと考えられ、その出奔には、河野氏権力を元就外孫の牛福丸通直に継がせんとする毛利氏権力の作用が予想されます。いずれにしろ、来島村上氏は海賊衆として河野氏の水軍力の一翼を担う重臣という従来の認識では、正確に捉えることは難しくなっています。
長々ととりとめのない話になりましたが、以上が私の卒論の概要です。なお、内容に関しては宮尾氏の御教示によるところが大きい(通康の通直庶子説等。私は当初は刑部大輔通宣か弾正少弼通直のいずれかの庶子ではないかと考えていました)ことを付加しておきます。何分不充分な論ですので、ご批判を賜りましたら幸いです。恐々謹言、
 
#0576 Re:575 河野氏来島村上氏  今城  2000/05/20
寺川さん、ようこそ。
大変面白い内容ですね。このように考えると疑問点が幾つか氷解するように感じます。ご研究の一層の発展を期待します。
河野氏は同じ名前が多くて、頭が混乱します。#575の書き込みの中で、単に「通直」とあるのは、皆「牛福丸」通直でしょうか。弾正少弼通直とごっちゃになりそうで、区別し易い名前を付けられないのかとぼやきたくなります(笑)。
これからも話題を沢山提供して下さい。
 
#0577 通直と通直  寺川  2000/05/22
そういえば、南北朝期から戦国末期にかけて、河野氏の当主に「通直」を称する当主が4人も確認されることは、疑問ですね。
前回の投稿では区別したつもりですが、わかりにくかった箇所もあったようですね。すみません・・・
ついでに、周知のこととは思いますが、一応上記期間の河野氏の略系図を挙げると(家督順)
●通朝−通堯−通能−通久−教通−通宣−通直−晴通−通宣−通直
となり、通堯と教通が後に通直と改名しています。基本的に、私は彼らを区別する際、通堯(通直)・教通(通直)・弾正少弼通直・牛福丸通直 と記すようにしています。なお、通宣も2人存在しますが、前者を刑部大輔通宣、後者を左京大夫通宣と官途名によって区別されるのが一般的のようです。
また、通能について、将軍足利義満から偏諱を受けて「通義」と称したとする記述があり、その署名のある文書も確認されているようですが、論註にも注記したように、将軍家の重代の通字である「義」の字を河野氏の通字である「通」の下に敷くとは考えにくく(大友氏や大内氏は「義」の偏諱を必ず頭に冠しています→大友義鑑・義鎮・大内義興・義隆)、むしろ河野家の例としては教通(義教偏諱)・晴通(義晴偏諱)の如く「義」ではないもう一方の偏諱を受けるのが通例であり、その偏諱を諱に冠するのが礼儀であったと考えられます。なお、大友氏・大内氏との授受方式の違いは、或いは家格の違いを反映したものでしょうか。無論、義満が通能を非常に可愛がって将軍家の象徴でもある「義」の字を下に用いてもよいとしたというのが真実であることが証明されれば、「通義」のみが例外であったことになりますが・・・いかがでしょうか?
一方、弟の通之は時の実力者細川頼之偏諱を受けたとされていますが、これは上の話からすれば「之通」になるべきではないのか?との疑問がでることと思います。この点については偏諱授受の研究の成果を鑑みなければわかりませんが、愚考すれば、義満と頼之ではランクが一段違いますし、また河野氏細川氏は同じ守護大名家であり、さらに頼之系は●頼春−頼之−頼元−満元−持之−勝元−政元と続きますが、頼之の時点で「之」が細川氏の通字と認識されていたかどうかは疑問であることなどから、教通・晴通のような偏諱授受とは性格が違うものだと思われます。あからさまに「之通」などと称すると細川氏との関係について将軍家に対して聞こえが悪いとでも思ったのでしょうか。頼之は一時義満から遠ざけられていますし・・・
河野氏において、通直なる名前に果たしてどのような執念があったのか定かではありません。通直初代通堯の事績と関連するものというのが通説のようですが・・・そのあたりは2人の通宣との関係とも併せて解明されることを期待します。通字及び偏諱授受について、どなたかよい参考文献・論文等ご存知の方は御教示ください。
河野氏は、まだまだ謎が多く残されているようですね(ToT)
 
#0578 「義」について  かわと  2000/05/23
>寺川氏
抜き刷りはいついただけるのでしょうか?(笑)
ところで、通義の「義」の件ですが、疑義を挟まれている通り、義満の偏諱であることはまず考えられないかと思います。まだ「義通」ならば可能性がありますが。
室町時代を概観しても、偏諱として与えられた「義」を「●義」の形で名乗った人物は管見の所見あたりません。これについては「通義が溺愛されたから」とされてきたわけですが、そうではなく、この理由は、逆に「●義」という不自然な偏諱に理由をつけるための苦し紛れの理由づけではなかろうかと思います。ちなみに、「通義が溺愛された」という確実な証拠はいまだありません。(通義が在京していたことが理由として挙げられますが、当時において守護は在京が通常のあり方であったことはご存知の通り。)
なお、義満は摂関家を含めて、通常「満」を偏諱として与えています。その点からしても、いくら河野氏が瀬戸内交通に影響を与えていたとしても、「義」字を与えたとするには、動かしがたい事実が存在しない限り、認めるわけにはいかないと思います。
→水野智之「室町将軍の偏諱と猶子」(『年報中世史研究』23)1998年を参照されたし。
 
#0580 Re:「義」について  寺川  2000/05/23
かわとさん、御教示ありがとうございます&今城さん、誤記入お詫びします。すみません・・・
抜き刷りの件ですが、『瀬戸内海地域史研究』は本1冊はもらえますが抜き刷りは頂けない、とのことなので、後程コピーしてお送りします。今夏完成予定だそうです。
>かわとさん、修論の進み具合はいかがですか?こちらは今から史料集めで忙殺されそうです。内容としては卒論の延長で、戦国期領主権力の二元政治とそれに伴う内訌について考察するつもりです。伊予においては河野氏は無論のこと、来島・能島の村上氏にも視野を拡げてみます。全国的には伊達氏・武田氏・上杉氏・大友氏・今川氏を題材にして、特に天文期の守護権力の変質といわゆる戦国大名との関係について言及できたらな、と思っています。御教示のほどよろしく。
>今城さん、私のEメールアドレスはセルラーの携帯電話です。文字数は特に制限はないみたいです。卒論は、以上のように今夏発行予定の『瀬戸内海地域史研究』第7輯に掲載される予定です。完成次第お送りします。本当に「心もとない」論文で申し訳ないのですが・・・ 
最近、来島村上氏能島村上氏について懇意にさせてもらっているO氏と共にしまなみ海道を行ったり来たりしています。予想以上に新しい発見がありました。やっぱりフィールドワークは大切ですね。恐々謹言、
 
#0581 Re^2;578,580 「義について」  今城  2000/05/26
かわとさん、お久しぶりです。
レスが遅くて済みません。通義の「義」に関するご意見、成る程と思いました。
また色々とお話を伺わせて下さい。
寺川さん
> 夏発行予定の『瀬戸内海地域史研究』第7輯に掲載される予定です。
> 完成次第お送りします。
首を長くして待っています。よろしく。
> 最近、来島村上氏能島村上氏について懇意にさせてもらっているO氏
> と共にしまなみ海道を行ったり来たりしています。予想以上に新しい発
> 見がありました。
> やっぱりフィールドワークは大切ですね。恐々謹言
こちらも楽しみにしています。Oさん、Mさんによろしくお伝え下さい。