天徳寺と龍穏寺

#2953 天徳寺・龍穏寺の場所  今城
天徳寺・龍穏寺の場所はYahoo Map で判ります。

検索法
 Yahoo地図情報(http://map.yahoo.co.jp/)で、
  件名:天徳寺
  地域:愛媛県
  種別:神社・寺院
 で検索して下さい。表示された地図の中央に天徳寺があります。

 龍穏寺は寺の印も記載されていませんが、上記地図のロシア人墓地の
 すぐ北東です。

昔の位置
 現在の位置は創建時と異なります。昔の位置は道後地区です。

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#2952 通宣さん・再掲載  marugen

松山城北の寺町の件
2555でご紹介しましたが、再掲載いたします。

河野氏ゆかりの寺寺が、松山市にはあちらこちらに残っております。
1500年前後の、河野通宣。来島城で亡くなられておりますが、通宣の菩提寺は、T寺でしたか。肖像画があると、伊予の哲学者・越智氏におそわり、出かけました。通宣のお顔が拝めると、ウキウキです。
「あのー、こちらに河野通宣さんの、肖像画が残っているとお聞きしたのですが?」
「そんなものは無い! 河野通宣? なんのことじゃ?」
「もう一つ、こちらに、松山市内の河野氏ゆかりの墓が集められた、河野塚があるとお聞きしたのですが」
「そんなものは、無い!」
てな具合で、河野通宣肖像画にも、河野氏ゆかりの墓が集められたという河野塚にも、出会えずじまい。この、お話、ゆづきのK先生にもお話しましたら、先生も、無いといわれたとか。伊予の哲学者。越智氏にも、このことお伝えしましたら、うーんと、天をにらんでおりました。

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#2955 ゆづき城の謎を握る天徳寺  marugen
 いやな思いでというよりも、残念、非常に残念なお寺です。
 天徳寺は謎の多い寺で、ゆづき城の謎を握っている寺と思います。

 まず、1341年、後村上天皇の命により、河野郷横谷にあった天徳山弥勒寺(天台宗)を道後へ移動。その時の名が、多幸山天徳寺。その後、細川氏に荒らされ、1490年、河野通宣が無相恵玄を招き再興。このとき、臨済宗になったと。

 古代の位置は、河野郷横谷。これは、善応寺の奥の院的位置になり、河野氏発祥の場所、河野氏ルーツの場所になります。

ゆづき城と天徳寺、おなじごろに河野郷から移動してきたと思われます。

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#2956 Re:2955 ゆづき城の謎を握る天徳寺  今城
 天徳寺は横谷にあったのですか。横谷は善応寺(かっての河野館)の北側を流れる河野川に沿って高縄山に至る道の途中で、河野氏は元ここに居たと言われています。
 ここに高穴城があって、そこからは風早地方・島嶼部を望むことが出来、河野郷の背後を守る要衝です。1468年、足利義政の兵に攻撃された柴尾城主越智通富・高手山城主越智通誘がこの城で戦死し、1479年、細川義春が阿波・讃岐国の軍勢を率いて伊予国に侵入した時、河野通生は十二台城に立て籠もり、弟勝生は高穴城を守って戦い、その後、河野勝生は兵を率いて世田山城に向い、義春軍を破るなど、何度も戦いを潜り抜けています。
 このような場所にあったとするなら、河野氏と共にあった寺という感がします。

 それにしても、横谷にあった天徳山弥勒寺(天台宗)を道後へ移動したのが1341年とは驚きました。戦乱の真っ只中に良くそんなことが出来たものです。金を出したのは誰か、工事の差配を誰がしたのか、工事の人数をどこでどうやって揃えたのか、私の理解を超えます。